ラーメン作りと、民主主義的議論・政治的意思決定…?

今年に入って「ラーメンづくり」にエネルギーを費やしています。

最初の動機は私の趣味で通う近くのヨットマリーナRIVRE
http://www.rivre.co.jp/レストランの維持のために、どのようにして売り上げを伸ばすか…ということでした。(それがなんでか…という事はとりあえず本稿と関係がありませんの割愛しますw)

よく誤解されるのですが、私はRIVREレストランの従業員でもアルバイトでもありません。「プロ」ではないのです。ですがつくったモノに対しては会員さんからお金を戴いていますので「セミプロ」と自分では認識しています。

ラーメン作りはたいへん興味深い…

今まで真剣に開発研究しましたのは①たこ焼き②お好み焼き③焼き芋④スイートポテトで、どれぞれ一般客にも販売した「実績」があります。

それ以来の面白さがあります。

まあ、「芸術作品の創作」に近い創作欲が満たされるといった感じです。

さて、今日気がついたのですが、ラーメン作りにはもっと面白いことがあるという事に気がついたのです。

【ラーメン・ラーメンに対する評論は、民主主義的議論に似ている】という事です。

ラーメンの開発に当たっては「プロ」からの助言は、ある大手食品会社の研究所所長さん(ヨットクラブの会員でしたので)以外には伺っていません。その他は「お客さん」「RIVRE職員」という食に関してはアマチュアの方から伺っています。

まあ、夫々意見を良くいう事…「旨い・まずい」ではなく味についての詳細から、中には「売れるためにはどうしたら良いか」…まで「アマチュア」の方が「プロ並」の評論をされます。

その表現は「…思う」ではなく、ほとんどが「…である」になるわけです。

これは、「たこ焼き」のときも一部あった現象ですが、まあそれと比べても多いwww

RIVREでパーティー料理として作る「イタリア料理」「フランス料理」ではほとんど決しておこらなかった現象です。(それらは「美味しいか美味しくないか…程度です。しいて言えば「塩分の度合い」があるくらいでしょうか…)

さて、

その評論をする方は何を根拠にそうする(自信をもって断定表現をする)のでしょうか…

長年にわたる「経験」や、経験を元に生まれた自分の「思い」を各種の「プロの評論」と照らし合わせて、帰納的に原則や理論を創り上げているのかもしれません。

また自分の思いが、実際のラーメン店のその後の盛衰を観察し実証検分することによって、理論化・普遍化しているのでしょう。

中には的を得た「理論」もあります。
中には「ただの感情の吐露にしか過ぎない…好みの問題」というのもあります。

おそらく本当のプロの評論家、もしくは成功したプロの場合は、「最低限営業継続が可能な味」というものを捉えていての評論であるのだと思います。

個人的感情(好み)は有るとしても、数多くの経験(試食・試作)という事を、感情から少しはなれ、「客観的に」分析した上での一定の法則や原理を見出しているのだと思います。勿論「実証」も数例にわたってしている事なのだと思います。

マチュアの評論の場合、正直私が「開発するにあたって当てにしている評論」というのは、

①ラーメン経験が豊富であるという事。

②ラーメンのみならず、様々な食べ物についての経験が豊富で、ラーメンの価格にみあった価値を相対的に把握しているであろう人(たとえば650円のラーメンの価値と50000円のコース料理の価値の相対比較が出来る)

③社会的経験が豊富で、一定の社会的成功を収めている方、もしくは何らか技能があり論理的思考が出来る方。

これはすべて「客観的評価・相対的評価をすることができるかどうか」に関わってきます。

勿論、「美味しいか否か」「好きか否か」という点につては、RIVREレストランの「顧客のニーズ」に合わせなければなりませんので(目的から)、アンケート的には謙虚に受け止めています。

さてこのような現象と、たとえば「政治的意思決定に際しての民主主義的議論」や「民主主義的政治的意思決定システム」に似通ったところは無いでしょうか…

意思決定・政策決定に「反映されるべき世論」と考える必要もあるかんもしれません。また、そもそも「議論によって政策決定はされるべき」なのかもしれません…

政治的なものでなくても、何かの話題・議題においても、この「ラーメンに関する評論をいかに受け止めるか」という事はとても似通っています。

どこまでが感情であり何が「普遍的理論」なのか…

「知識」「知性」とはいったい何なのか…

またそれらがどのように意思決定に反映されるべきなのか…

「政治的意思決定システムへの国民の参加」はどうあるべきなのか?何に国民は満足するのか…

これは興味深いことです。