与えようよこの世界に…働くことの意味

裏切りを知る度に許す事を覚えました
傷付けられ痛みを知る度にやさしくなれました
そんな僕だけどたった一文字の気持ち伝える事が
いつも上手に出来なくてヤキモキしています

好きでした事なのに見返りを求めてしまいます
自分は不要な存在じゃないかと不安になります
たった100年足らずの僅かな時間の中で
どうせ返す物なのに必死にしがみ付いてしまいます
与えようよこの世界で苦しみ嘆き哀しんだ悦びへの感謝を
与えようよこの世界に遺せるものが在るとしたら与えられた感謝くらい

これは、私の友人のストリートミュージシャンが創った歌の歌詞なのですが。とても素晴らしい歌です。

人が何らかの努力をして何らかの能力を得て、その結果社会的評価を受ける…

何のためにでしょうか?

動物学的に考えれば、生きていくため・餌を得るためと考えられます。
勿論、それもありますが果たしてそれだけでしょうか…

家や車や家電製品を購入し、それも「他よりちょっと贅沢なもの」を求めることや、レジャーや趣味をするために…勿論、それもあるでしょう。否定しません。

しかし、「それだけ」と考えてしまうと、いやに「狭い生き方」(せこい生き方)のような印象を受けます。

何らかの能力でもって仕事をして、それに対して受ける社会的評価と言いますのは、「仕事・労働の対価」である給与等で表れますが、それだけではありません。

その仕事によって、誰かが救われたり、利便性をもたらしたり、幸せを感じたり…ということによる社会的評価もあります。また同じ職場内で効率的に仕事を進め、他の労働者に利便性をもたらす事への評価などもあるわけです。

商品やサービスに対して「良い仕事をしてますね〜」とか職場内で「あの人は使える・できる人だ」という評価は、実は「対価」とは関係ない部分での社会的評価といえるのかも知れません。

古くから経済学の分野では、労働という事についてのこの二面性をあらゆる立場で論じてきています。

人は「生活のため」に働くのか「自己実現として」働くのか…と言った事です。

私はそこにもう一つ付け加えたいと思います。

『自分が働く事によって、どれだけ社会に良い影響を与える事が出来るか』

簡単に言えば、古くから商売人が「お客様にどれほど喜んでいただけるか…」に近いものですが、私はそれ「対価」を求めることなくおこなう…ということを付け加えたいと思うのです。

顧客満足」などのような陳腐なレベルではなく、「社会貢献」と一般に言われるものに近いイメージです。

働く事によって自分がどれほどの富を得るか、会社にどれほどの富をもたらすか…という観点ではなく、どれほどの社会に幸福を与える事が出来るか…という観点で自分の仕事を見つめ直して見るのも一興です。

大きな影響を与えるためには、優れた能力が必要です。その能力を培う際のモチベーションは、『自分が社会にどれだけのものを与えられるか』であって欲しいのです。

虎は死んで皮をのこし、人は死んで名を残す…
と古くからいったものです。