2/28「原子力発電に関しての議論」…正しい議論の姿勢

2012年2月28日毎日新聞WEB

東京電力福島第1原 発事故を調査してきた民間の「福島原発事故独立検証委員会民間事故調)」(北沢宏一委員長)は27日、菅直人首相(事故発生当時)ら 官邸の初動対応を「無用な混乱やストレスにより状況を悪化させるリスクを高めた。場当たり的で、泥縄的な危機管理」と指摘する報告書をまとめた。官邸の指 示が事故の拡大防止にほとんど貢献しなかったと総括。緊急事態の際の政府トップによる現場への介入を戒めた。

まあ、報告書や報道を見る限り、かんちゃんはただただパニックを起こしていた…それ程度の人物であったという事がよくわかります。

所詮は「文句だけを言う市民運動あがり」の小物ですから仕方がありません。被害にあわれた方にお悔やみとお見舞いを申し上げる事しか今となってはできません。

もうひとつは、政権をになうものを投票するときに、リーダーとしての資質や能力を勘案しなければならない事を主権者として心に刻む事でしょう…

今回の民間報告書につきまして、私が気になりましたのはその点ではありません。

本日の産経新聞朝刊でこのように報道されていました。
(おそらく福島原発事故独立検証委員会の報告書「第9章」の内容だと思いますが、まだネット上で発見しておりません…)

■以下産経新聞2012年2月28日朝刊より転載
http://sankei.jp.msn.com/science/news/120228/scn12022800410006-n1.htm外部リンク

報告書は、安全神話の背景となった2つの「原子力ムラ」の存在に言及した。原子力行政・産業に加え、財界・政界・マスメディア・学術界を含めた「中央の原子力ムラ」と、積極的に原発との共存を選び続けて自らも安全神話を構築してきた「地方の原子力ムラ」だという。

 報告書は、中央のムラは原発導入の初期、リスクを明示せずに安全性と技術的先進性を強調し、原発を受け入れる素地を作ったが、反原発運動が盛り上がると、さらに神話を強化する方向に動いた−とみる。

 事業者が事故対策 を取れば、反対派が訴える安全性への疑念を肯定することになる。それを否定するため、ムラは「原発の絶対的な安全性」を唱え、 事故想定を許さない環境ができたと、報告書は説明。「原理原則に基づくイデオロギー的反対派の存在が『安全神話』を強化する土壌を提供した」と指摘した。

(以上産経新聞からの転載おわり)
私はこの内容に関心を持ちました。

本来原子力発電の推進は、資源のない(と当時は思われていた)日本が、高度な資本主義生産を安定した価格でのエネルギーを得る事によって可能にするために…工業国として国を富ませると言う目的から進められてきたはずのものです。

別にそれが原子力であろうとなんだろうとかまわないはずでありました。

アメリカの日本経済支配の意図はさておき、原子力はいたってその目的に適うものである…これに大きくは異論はないはずです。

まあ、推進派の主たる動機はそうであったと考えることができるでしょう。
(CO2を削減するクリーンなエネルギーは最近になって喧伝された事ではありますが、化石燃料と比較すれば勿論これも推進する動機のひとつとなりえます。

その中で、「原発反対派」と呼ばれる人たちが、特にその安全性に疑問視をしたのですが、その論点はやはり技術によって放射性物質を制御できるか否か?原子力発電所の安全性に関しての疑問からであったように思えます。

私がちょうど学生であった1980年初期(スリーマイルの事故が1979年でしたから)に、反原発運動も結構盛んでありましたが、当時「サヨク」 であった私ではありますが「原子力の平和利用」についてポジティブな考えを持っていましたので、その運動には全く参加しませんでした。

というか…最初から「NO NUKE!」という結論があり、「原発はダメだ」という根拠ばかりを探して出し合う「勉強会」や、その結果をただただ流布宣伝したり関西電力や政府に「抗議する」という姿勢に違和感を感じた…というところもありました。

今回の報告書で明らかになった、「盲目的な安全神話に自らも縋りつく原子力ムラ」と「イデオロギーに固着してNO NUKEという絶対的結論を持 つ反対運動」の対立が、事態を複雑にし、結局は安全対策に問題を生み出した…という分析は「どちらに責任があるか」と言う視点ではなく、「議論はどうある べきか」と言う観点からはたいへん興味深いものでした。

両者は、全く合いよれない…180度真逆にある二つのベクトルのようです。
簡単に言えば「YESかNOの二元論」であったわけです。

世の中の事象に「絶対的正当性」もなければその逆も本来はありえません。ポジティブな面とネガティブな面の二側面は必ずある…という事はある程度人生の中で様々な経験(特に産業社会の中での経験)を積むと自然に理解できる事です。

プランAとプランBが対向する意見でありこのどちらかを選択しなければならない場合、
「相反する意見をつき合わせて白黒をつける」といった問題の決着を図る場合はほとんどなく、プランA.Bをつき合わせて新たにプランPを創る…といった議論をします。

ようはどちらのプランも「たたき台」として考えていくわけです。

議論の結果、ほとんど「プランAのようなもの」になったとしても、議論の中で「プランB推進派」が述べるプランAの問題点を解決したものが新しい「プランAダッシュ」になるでしょうし、プランBのポジティブな面を取り入れたものになる場合は少なくはありません。

ある私の友人は、議論の際の「お互いの歩み寄り」「お互いの論者が分かり合うこと・想像すること」を強く主張されます。私はこれを「ベクトルの合成」になぞらえて理解しています。

Aというベクトル(論)が方向の異なるBというベクトル(論)と突きあう・向かい合う事によって、全く新しく、方向も量もA・Bとも異なるベクトルPが生まれます。

それがふたつのベクトルがなす角が180度であれば(真逆)であればどうなるでしょう…
ただお互いに打ち消しあう事しかしません…

今回の「ムラ」と「反対運動」の「議論」はまさにそういったものであったと言えると私は考えます。

ではなぜ、「180度」の関係になったか…
本来どちらとも(どちらかでも)日本の経済発展やその中での国民の幸福を考えたのならば、180度真逆の方向を向くはずもありません。

自分の利己的な経済的利益や社会的地位・名声を目的にしたか
主義に基づいてそれに従順な自己を目指しただけなのか
原子力エネルギーのメリット・デメリットを夫々突き詰めながら比較考量しようとしたのか、そもそもその姿勢すらなかったのか…

まったく感情論と下世話な利己的利益追求の意思しかそこになかった…そこまでは酷くはないでしょうが、その傾向があったとしたら…

そういったことが生んだ悲劇なのかもしれません。

議論によって個々人の論というベクトルを合成する…この議論の目的を忘れてはいけないと改めて思います。180度にならないために「歩み寄る」「相手を想う」「想像する」という心構えが議論には必要になるのでしょう。