フィリピンへむかう海上自衛隊「いせ」「おおすみ」「とわだ」

自衛隊員の皆様が安全のうちに被災者救助や復興へ向けての支援活動を全うされれることをこころよりお祈りいたします。

ネット内の日記やつぶやき、また様々なところで散見される意見として69年前大戦末期の「捷一号作戦」と「同一化」するようなものがありました。私はそれが不思議でしょうがありません。

思えばこの69年の間に、日本は一度「壊滅状態」「それに近い状態」となり、他国を助けるどころか他国に助けられて明日の生活をなんとかやりくりする状態であったのです。

戦備についても、自国を防衛する戦力以外は一切放棄したわけです。
(私は憲法9条については「他国を侵略するため、または政治的紛争を解決するため」の戦力は放棄するが、自国を防衛するための戦力を放棄することを求めた(明示した)ものではないと解釈しています。)

一昨年の3.11震災のときにも明らかになったように、「軍隊」というのはその物理的特性から、自己完結しながらなにかの「仕事をする」ことのできる唯一の組織である‥というものなのですが、今回のような災害救助の場合には「うってつけ」である特徴を持っている組織であります。

まあ、あのときに「自己完結できない者」‥たとえば私のような市井の凡人は、救助・支援をする必要があるときに「動けない」役立たずであったのと比べると雲泥の差です。

今回支援に向かうことになった「いせ」「おおすみ」「とわだ」なのですが、それぞれ災害支援活動に適した海上自衛隊が誇る艦たちであると私は思います。

日本がこうした護衛艦輸送艦・補給艦をもてるようにこの69年でなり、人命救助や復興支援のために遠くレイテ湾にいけるようになった‥その物理的条件や政治的社会的条件を整えてきた多くの日本人に対して、私はある種の感謝と感激を感じます。

日本国内にも一部のものが、自衛隊の拡大についてはネガティブな意見を持つものが根強く居て、今日まで「感情的」「空想的」な思いに基づいた非難をしてきた‥少なからず世論もその影響をうけていた‥にもかかわらず、装備や組織を維持したり、その物理的条件生かすために、地道な訓練を行ってきた方々に、感謝をしたいと思います。

確かに「軍備」「戦備」は「諸刃の剣」といえるものでありましょう。

経済的自己欲求を満たすために使われたり、政治的支配力拡大目的のために使われることもありうるものです。「政治的紛争を解決する手段」という表現の中にはとても危うい内容が含まれてしまうのですが「本来的には」そのために持ちいられてきた歴史がほとんどであるわけです。

しかし、21世紀の今日において、軍備はあくまでも「守るためのもの」であるという側面に限定されてこそ存在意義があるのだろうと思います。

誤解なく言えば、「敵を殺すこと」を目的とするものでなく、あらゆる事象から物理的条件を整えることによって人命をまもるためのもの‥そうあって欲しいと思います。

今回の自衛隊の活動について、あらためてこのように考える次第です。

69年で日本も世界も大きく変わり、また変わらない(いまだ変われない)面もあります。
しかし、今回の「レイテ湾突入」はまったく概念の異なる「突入」であると考えます。

まあ、当たり前のことなんですが〈苦笑)

小学生高学年〜中学生で勉強面での「問題・困難」がある者の特徴

私の20数年間の学習指導の経験の中で、「机の上での勉強に困難・問題が生じる」という小学高学年生〜中学生には、以下のような特徴があります。

まあ、これを「治していく」ということがたやすく出来る場合は、すぐに成績も上がるのですが。この特徴を持つ者の大半はなかなか直すことは出来ません。当然、なかなか成績も上がらないのです‥

正直申し上げて、この特徴を持つに至るまでの生活の仕方に問題があるのです。

幼少期の教育のあり方や生育環境が大切であるというのは、こういったことからなのです‥

現在、向学舎では一流のスポーツクラブと提携して「アスリート学習サポートシステム」を開発中なのですが、その動機はこれにも関連しています。
(もう一つは、コミュニケーション能力の育成です。)


①論理的思考力をつくる基礎的姿勢が無い
原因と結果の因果関係を考えられない・考えようとしない。
過去⇒現在の状況から、未来予測が出来ない・しようとしない。
物事の相互の関連(影響しあうものと、しあわないものの区別)を考えない。

②我慢が出来ない子供

反復した学習・訓練に極度の抵抗感・違和感を感じる。
感情や情動に左右され、理性的合理的な制御が出来ない。

③行動に調和性が子供

整理整頓が出来ない。
行動の事前の計画を建てようとしない。行動や存在の客観的理解(行事計画の中での存在や行動を意識する。)ことができない。

④暗記力(長期記憶の能力)に劣る子供

短期記憶⇒長期記憶にしていくための
(1)リハーサル(頭の中での反復・復習)
(2)コーディング(イメージ化・概念によるグループ化・関連付け)
が出来ない。

※LDや視聴覚障害等の特別な場合を除きます。
※コミュニケーション能力に劣っていても、机の上の勉強での成果には支障は見られません。

TPPのどこがいけないのでしょうか?

安倍首相は15日、首相官邸で記者会見し、環太平洋経済連携協定(TPP)への交渉参加を正式に表明した。

TPPを「アジア・太平洋の未来の繁栄を約束する枠組み」と位置づけ、交渉参加を「国家百年の計」と説明した。日本は参加国の同意を得たうえで、7月にも協議に加わる見通しだ。コメなど農産品を関税撤廃の例外扱いとできるかが今後の焦点となる。政府は同日、TPP参加で実質国内総生産(GDP)は3・2兆円押し上げられるとの試算を公表した。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130315-OYT1T01068.htm?from=ylist
(読売新聞オンライン)

一番に言われるのは
「国内農業の保護・食料自給率の問題・食の安全確保」
なのだが‥

①国内農業は「企業努力」はできないのか?

ただ「農地を持っている」というだけで、それに胡坐をかいて売れる農産物を作っていない‥まあ、農地の管理の問題で農地転売が出来なかったり「百姓心理」で農地を売れなかったりという問題があるので、そこらへんの農地管理制度や税制を変えなければいけないのだが、集約的農業・専門家や「やるきのある農業従事者」が農業をやれるようにしなければなりますまい。

企業努力なしに「のうのうと保護されて生きる」と言う前提を先ずは変えましょう。

②国内自給率は高ければ良いのか?

小麦やとうもろこしのように、国際市場での価格変動や、外国為替のレート変動に大きく影響される‥エネルギーと似通っているのだが‥という観点からは、たしかに主食についてはそういえるかもしれない。ただし「輸入が0」になる事を想定した議論は現実的ではないことは確かであろう。

③現在の日本の食品の安全基準を変えるのか?

国内農生産物であるか国外のそれにかかわらず、一律に安全基準を敷くのならば問題はあるまい。「輸入牛肉のみの検査」などは問題があるのであろうが‥まあ、国内生産であろうが国外であろうが、いいかげんな者が作った生産物は存在しうるわけで、国内=安全、国外=危険度が高いなどというのは、偏見にしか過ぎない。安全検査はいちりつにやるべし。

ナニをもって「安全なのか」というのは、その国々の「国民感情」も含め各国によって異なるのであるから、これはもう仕方がない。日本は日本の基準で検査をすれば良いことでありましょう。

最悪、「この商品は輸入・販売は出来るが、日本国の安全基準からは『Bランク品である』」としたってかまわないわけで、そこから先は安全をとるか、値段をとるか‥消費者が判断すれば良いことです。その市場動向によって、実際に販売する業者の判断が生まれます。

TPPは農業にとっても、構造的改革・変化をもたらし、健全な淘汰がなされ、能力のある者にとっては大きなチャンスが生まれることなのではないでしょうか。

社会が必要とする能力がなかったり、あってもそれが認められなければ、淘汰されてしまうのは仕方のない事でありましょう。厳しい事ですが、それが現実です。

ただ「頑張ればいい」ということではなく、認められるまで頑張り続けることが必要なのはそういうことなのです。子供たちに勉強を教えるときに、私は「口をすっぱくして」それを言います。子供にとって厳しい事かもしれませんが、あとになって「初めて」その厳しさにふれて、つぶれてしまうより良いでしょう。


勿論、淘汰と言えども死に絶えるわけではなく、輸出産業など好況な産業へ「職換え」するだけのことであります。普通は当たり前のように、好不景気の経済の波や、産業構造の変化に合わせておこりうることです。

それがなぜアカンのでしょうか?

どうしようもない。

韓国の朴大統領は、3.1独立記念日の演説でこう語ったそうです‥

また、日本が歴史問題に積極的な姿勢を見せてこそ「両国間に堅い信頼が生まれ、真の和解と協力が可能になる」と主張した。その上で、「過去の歴史に対する真の省察が行われて初めて共同繁栄の未来が開かれる」との考えを示した。「加害者と被害者という歴史的立場は1000年の歴史が流れても変わることはない」と強調した。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/03/01/2013030100631.html
朝鮮日報

「加害者と被害者という歴史的立場は‥」といわれれば、何をどういおうが一度「侵略した国」は未来永劫、何事にも頭を下げ媚びへつらえ‥というのでしょうか?

共に「過去を水に流す」という考えはどうも朴おばさんにはないらしい(苦笑)

謝罪というのは容認・赦免がってこそ成立するし、容認・赦免は謝罪があってこそ成立するものなのだが‥このように「1000年たっても‥」と言われれば、どうしようもない┐(´〜`)┌

中国以外の他の「かつての被支配国」はこういう表現をしません。それぞれの国の文化的な違いといえばそれまでなんですが、どうも「しんどさ」を感じてしまいます。

1965年の条約はいったいなんだったのか‥日本人の多くはこの朴おばさんの発言を聞いてそう思うことでしょう。私もその一人です。


日本の安部総理は、2/28の施政方針演説ではこう述べています‥

「中国や韓国は、大事な隣国です。経済を始め、幅広い分野で過去に例がないほど緊密な関係となっています。両国との信頼関係の強化は、アジア地域や国際社会全体にとって極めて大切であり、未来志向で、率直に話し合えるようお互いに努めていくことが重要であると考えます。 」
http://www.kantei.go.jp/jp/abespeech/2006/09/29syosin.html

まあ「率直に‥」というのも、なかなか国が違えば感情も違うのでアレなんですが、どうも今回の朴おばさんの表現は、いくら「3.1独立運動記念日」で相手は興奮しているといえども、なかなか受け止めるのは難しい表現です。

2013/2/8 1937年盧溝橋事件から学ぼう!

【1937年盧溝橋事件から学ぼう】
中国人民解放軍海軍の「レーダー照射事件」に関して‥

【北京=島田学】中国外務省の華春瑩副報道局長は7日の記者会見で、中国海軍艦船が海上自衛隊護衛艦に火器管制レーダーを照射した問題に日本政府が反発していることについて「日本が危機をあおり、緊張をつくりだし、中国のイメージをおとしめようとしている。関係改善の努力に逆行するものだ」と語った。レーダー照射自体は「その報道については関連部門が現在、真剣に調査している」と述べた。

 一方、香港のフェニックス・テレビは7日夜、中国国防省の報道担当者が「(日本側の発表は)事実と一致しない」と話したと伝えた。発表内容のどの部分を否定したのかは不明。東シナ海での日中間の緊張は「日本の艦船が近距離から中国の艦船を監視しているのが原因だ」とも語ったという。国防省は7日夜現在、公式コメントを公表していない。
(2/7日本経済新聞http://www.nikkei.com/article/DGXNASDE07001_X00C13A2PP8000/


「中国と日本はかつて戦争をした」
1937年7月7日におこった盧溝橋事件から1945年8月15日までの8年間をそう「理解」している人は多いのですがそれは間違いです。

では

「中国政府と日本政府はかつて戦争した」のでしょうか?

これまた間違いです。確かに「日本政府は」は正しいのですが‥

多くの人はこういった浅い知識(中学生レベル)での歴史の認識に満足しています。
しかし、それでは歴史から学ぶ事は出来ないのです。

1937年当時の中国大陸に統一政権などありもしなかったのです。
大きく言えば2つの政府があり3つ+αの権力争いのさなかにあったと言えるでしょう。

蒋介石を首班とする国民党政府

毛沢東周恩来らを中心とし、ソ連コミンテルンに指導と援助を受ける中国共産党勢力
(①の国民党革命軍の中に勢力を持つ)

汪兆銘を中心とする和平グループ(1940年に汪兆銘は南京国民党政府を蒋介石に対向して作る)

④ ①②③にそれぞれ協力したり包括されていた、または全く独立していた「旧軍閥」「地方有力者」のグループ たとえば盧溝橋事件の「主役」宗哲元などは代表的存在です。

中国北部(満州近辺では)
⑤殷汝耕を首班とする冀東防共自治政府 日本の「傀儡政権」の性格を持つ政府
⑥河北地方の自治を目指す、宗哲元らを首班とする冀察政務委員会 ①はこれをコントロールしようとし、日本軍も同様、⑤とも接近したり離れたりといたって不安定な様相をもつ。③とも関係の深い幹部がいた。軍(第29軍)には②の者もまざり、これらが盧溝橋事件を起こした。

戦争の拡大と進化につれて①②⑥は協力関係を強くし④はその①②ニ参加したり取り込まれていきますが、②はずっと独立したままであり、日本と協力関係を結び停戦をしようとします(失敗したのですが。)

このようにいたって複雑な権力が乱立しそれぞれのヘゲモニー争いをしていたわけです。
戦後御存知のように②は①の勢力を大陸から追い出し、今の中共政府を作ります。(①は台湾に逃げ延び中華民国を築きます。)

さて

現在の中国はどうなのでしょうか‥

中国政府・中国共産党中国共産党人民軍は本当に「一枚岩」「一つの意志」を持っているといえるのでしょうか‥

私はどうもそれには懐疑的です。中国政府と共産党は制度としては異なるものですが現実的には同一のものです。しかしその内部はどうでしょう。

一応、習近平一派がそのヘゲモニーを握っているようですが‥「太子党」と言われるものも一枚岩かどうかわかりません。なにしろヤクザ組織と同じでヘゲモニーを握れば莫大な利益を得る事が出来ます。

逆に失脚すればすべてを失う‥近年では重慶で「毛沢東思想」による統治で思考をおさめ、習金平のライバルと目された薄熙来が良い例でしょう。薄は2011年に失脚し今や死刑目前で投獄されています。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201210%2F2012101100714&g=int

中国共産党人民軍はどうでしょうか。

彼らは中国政府にではなく、中国中国共産党中央軍事委員会(主席 習金平)を最高軍事指導機関とします。

ちょっと複雑なんですが、「政府の言う事でなく共産党の言う事を聞く」と言う事です。
「政府と共産党は事実上一体」であるのですが、政府内(共産党内)での勢力争いによって、『意見が一致しない」と言う場合もありますので、要注意です。

たとえば1989年の天安門事件が良い例です。

第二次天安門事件が発生した時に、中国人民解放軍が、民主化勢力(民主化運動に理解を示していた一部の政府中枢を含む)と共産党保守派のどちらかに付くかを、全世界が注視したが、中央軍事委員会主席である訒小平の命令によって民主化勢力の弾圧を行った。人民解放を冠した軍隊が人民を弾圧した光景は第一次天安門事件の時に四人組からの命令を最後まで無視した姿とは余りにも対照的であったが(四人組は最終的には民兵を動員した)、中国人民解放軍の行動は中央軍事委員会主席の一言に左右されている事を知らしめた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E6%B0%91%E8%A7%A3%E6%94%BE%E8%BB%8D

今回の「レーダー照射」についても、「近習平の意思でさせた」という説もあれば、人民解放軍に強い影響を与える党(政府)幹部‥軍事委員会委員でもある‥が勝手に命令した、という説もあります。「現場の暴走」説もあります。

※「近の命令であった説」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130207/chn13020720050005-n1.htm


まあ、このように諸説がまことしやかに流れると言うのも、中国人民解放軍が、「シビリアンコントロール」とは全く無縁のものであるということなのです。

隣国にとってはまあ、厄介な存在です。
日本人としては、「中国が攻めてくる」などというような危機感を安易に持たず、中共政府内部や軍関係者のヘゲモニー争いを今度は十分見定めないといけません。

勿論、中共政府・人民解放軍と、中国国民も一枚岩であるはずもありませんので、その点も留意しなければなりません。

「中国対日本」などあるわけもない幻想なのです。
中共政府・人民解放軍反日勢力などが暴走する事は十分ありえますが、そのときこそが中国国民とそれらを分離させる最大のチャンスでもあります。

1937年当時は日本政府ですら中国を「国共合作」などで「一つの中国」と見てしまったようです。勿論、国民は「憎きシナ人」でした‥まあ、それくらいの知性しかなかったのだから仕方ありません(苦笑)

少ないながら、中国側をの混乱する権力乱立を知り、それを利用しようと努力したものも日本陸軍内部にもいましたが、いかんせん一貫して東条英機がアホでありました。もしかしたらやつは「コミンテルンのスパイ」ではなかったのかとおもうくらい、コミンテルンの意図どおりに日本を動かしたのです。

国民もアホでした。彼のプロパガンダに見事に乗ったのですから。

ちなみにあの戦争は「侵略戦争」でも「日本の防衛戦争」でもありません。
中国大陸に共産主義を根付かせる‥最終的にはコミンテルンソ連のそれではなく、毛沢東のそれでした‥為の戦争でした。

いや

毛沢東を王様にするための戦争」と言っても良いでしょう。

さて、今回は誰が王様になろうとして「レーダー照射」をしたのでしょうか。
それにはとても興味がありますが、私も関係者として巻き込まれそうですので「高みの見物」と洒落こむわけにもいきません(苦笑)

あらためて日中戦争開戦時のことを学びたくなったのはこういったことからなのです‥

数学力向上を図る日本数学検定協会は、昨年4月から今年8月に実施された「実用数学技能検定」で出題された、3項以上からなる「四則計算」(たし算、ひき算、かけ算、わり算)の問題について調査。

その結果、かっこ(括弧)がある問題に比べ、かっこがない問題では正答率が低下する傾向があると発表した。

同調査から例を挙げると、「(36-12)÷4」の正答率は98.6%にのぼるのに対し、「71+29×18」の正答率は68.0%まで低下している。
(引用 マイナビニュースhttp://news.mynavi.jp/news/2012/10/26/154/index.html?gaibu=hon

「71+29×18」と言う問題を間違える者はおそらくこう「考えて」行う…

71+29=100となるからぁ簡単(便利)、そんで100×18=1800でしょ簡単!

ようは計算するにあたっての世界に共通するルールを全く無視して「自分がやりたいようにやる」というわけだ(苦笑)

もしくはただただ「前から計算する」というルールしか考慮をしておらず、そのルールよりも「掛け算・割り算は先に行う」というルールを失念している。

いわばルールの優先順位を考えていないという事なのであろう。

いずれにしてもこのような姿勢は大変危険なものである。

そもそも算数や数学は、法則やルールに従って問題を解決する事を訓練する学問である。
少なくとも小学校・中学校で行う算数数学では、ほとんどの場合単純な1−2のルールや法則を用いて問題を解くことを訓練される。

高校では問題を解くために、複数の方法がありそこに回答者の「制限された自由な意思」が求められる場合もあるのだが、あくまで法則やルールにしたがった上での「自由」であるわけだ。

学の低い者や前頭皮質の未発達な子供は、この外部から与えられる・アプリオリに存在する「法則」や「ルール」に従う事を極端に嫌う者がほとんどである。

実はこの法則やルールというものが世界に普遍的で絶対的であるがゆえに、世界の共通言語として機能することを想定することができない…がゆえに嫌ったままでおわるわけだ。

そこに様々な不幸が生まれる。

まあ問題なのは小学校の教師がそれを全くわかっておらず、ただただ「ルールと法則の押し付け」をそれも「軽く」やってしまうことにあるのかもしれないのだが…


子供にとってルールを身につけて行動する事は大変難しい事でもある。
それには反復訓練が重要である。

71+29×18
=71+522
=593

このように計算の途中経過を、行を変えて視認できるようにして何回も繰り返してルールを身に着けなければならない。
教える側が、法則やルールに従って考えたり動くことの重要性をどれだけ認識しているかも大事な事である。真剣にやっていただきたいところだ。

0.31÷0.2=1.55という式になる文章題をあなたは作れますか?

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120919-OYT1T01570.htm
読売新聞web9月20日

文部科学省国立教育政策研究所が、全国学力テスト4回分の傾向を分析した結果、小学6年生の半数近くが、小5までに学ぶ「小数のかけ算・割り算」の意味を理解していないとみられることが分かった。」


まさに論理力の欠如と言えそうです。

まあ、子供に限らず世の中に「算数・数学嫌い・苦手」と言う人はすくなからずいます。

私はそのような人の論理力やその人がおそらく「感情的な人間」と偏見を交えて、まずは警戒してしまいます(苦笑)

この報道で言われる「少数の掛け算割り算の意味が解らない」というのは実は、」少数になって初めてわからなくなるのではなく、実は整数での掛け算や割り算の意味が解らない(あやふやである9ということが原因となっているものがほとんどです。

「一皿に2こずつリンゴが乗っています。そのお皿が3皿ありますリンゴは全部でいくつありますか?」
これを式に表せば

2×3=6 となり答えは「6個」となるわけです。


2+2+2=6でも全く問題はないのですが、「掛け算は足し算より便利」と言う「理解」をする場合がほとんどです。教師もそう教えます。

また「掛け算は量が多くなるんだなあ…」というイメージを持つ場合がほとんどです。

それでは
「0,7×0.3=0.21」と式化できる(それが答えとなる)文章問題を皆さんは作ることができるでしょうか?

おそらく簡単ではないでしょう。

ここで先の「掛け算は量が大きくなるんだなあ」とか「足し算するより掛け算のほうがべんりだなあ」という考えが決して全てには当てはまらない…すなわち掛け算の本質的意味ではなかったという事に気が付きます。

たとえば上記の式になる「文章題」としてこうしてみるとどうでしょうか…

「縦0.7m、横0.3mの長方形があります、この面積は?」
「時速0,7㎞の速さで、0.3時間歩くと何キロメートルすすめるでしょうか?」

ぜんぜん「増えない」のであります(苦笑)

先の例の面積でいえば面積を数値で表すという事がもはや高度な抽象概念であり、いわば「便宜的」なものであることに気が付きます。

また後の例では、掛け算が「単位当たりの量×単位数」である(先のリンゴに例もそうであるのですが)という事がわかるはずです。

すなわち小学2年生後半から学ぶ掛け算では、「安易な理解」をしているわけで、少数の掛け算(特に小数をかける場合)を学ぶ際には高次の理解をしなければならないという事です。

これは論理性の発達に応じてなされる、いわば「手続きをふんだ」教え方をせざるを得ないということからおこる課題です。

言い換えれば、初期に理解した内容をいったん批判し、その上に高度な理論や概念を載せていく…そういう作業を強いる事が教える側に要求されているということでしょうか。

さて

「0.31÷0.2=1.55」となる文章問題をあなたはつくることができますか?

面積・速さ以外の内容で作ってみてください。なかなか難しいですよ。