8月10日に韓国大統領李明博(イ・ミョンバク)が竹島(彼らの言う独島)に上陸し、領有権を主張しました。

8月11日、ロンドン五輪でサッカー日韓戦に勝利した後、韓国代表MFパク・チョンウが独島(日本名・竹島)の領有権を主張するメッセージを掲げた事が、オリンピック憲章に違反する疑いで新聞等の報道がなされました。

8月14日、韓国大統領は、非公式ながら韓国に対して、「天皇が土下座して謝罪せよ」という問題発言をしました。ここから日本政府は韓国に対して強固な姿勢を見せるとともに、竹島の領有件の紛争について、国際司法裁判所で司法判断を仰ぐことを決意し、提訴の方針を固めました。

◆さて皆さんは竹島(韓国では独島)が日本の領土である…という事を説明できますか?

まあ、ここらへんはみなさんが持っている「社会科資料集」にも説明されている事ですから一応はできるかと思います。

詳しくは外務省が説明していますので興味のある方はどうぞ
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/gaiyo.html

◆では、韓国政府の主張の内容やその動機(考え方)についてはどうでしょうか?


案外と知らない方も多いのではないでしょうか…

まあ、偉そうなことを言う私ですが実はこの事件を契機に調べるまでよく分かりませんでした(苦笑)
韓国政府の主張・説明です。
http://jp.dokdo.go.kr/index.do
http://jp.dokdo.go.kr/fBoard.do?command=detail&langType=JP&boardType=001&boardCode=BM_JP_001&categoryCode=&searchType=&searchWord=&page=1&bIdx=17255

この両国の主張をもし第三者が見れば、どちらかが「嘘」を言っているか両者とも「嘘」をいっているか…と思うほど対向、いや対立していると言わざるを得ません。

まあ、裁判にかけねばならないほどの事案は、国同士であれ民間であれこのように意見が食い違っています。そうであるからこそ裁判で法によって判断してもらわねばならないのです。


◆しかしながら不思議であるのは、韓国政府はこの裁判を拒否しているという事です。これは日本人にとって違和感を感じる事であります。

皆さんは不思議に思いませんか?

「韓国政府がわがままを言っている」ように思いませんか?
そして「なぜそんなわがままを言う」のでしょうか?

私もそれはとても不思議に思う事でした。
私も日本人ですから、そんな一方的な言い分は許せない…と感情的に思ってしまう事もありました。

しかし、まあ「わがまま」と言えどもそれは韓国政府の意見ではありますので、その根拠やそれを言う意図、考え方があるはずです。
それを調べてみるのも悪い事ではありません。いや、ただ主張をぶつけ合ってそれが感情の齟齬をきたすのならば、相手の考えを知ることは有意義な事でもあるでしょう…

調べてみると大変興味深いところがわかってきました。
(以降続く)

大津市O中学の「暴行事件」に関して…安易に「御託を述べる」方に対して

お亡くなりになった13歳の少年いに改めてお祈り申し上げます。

この事件の詳細がどうであるか全くわかりません。
様々な報道や情報が流れ、それも真偽のほどはわからないというのが本当でしょう…

まあ、警察が珍しく本腰を入れて捜査をしていますので、何らかの結果は出るのでしょうが
裁判がなされるまでなかなか真実はわからないでしょう。

べつにそれはどうでもよいです。
二度とこのような事件…どころか暴行事件が起こらねば良いと思います。

さてこの件で様々な人が「評論的意見」を述べていますが、中に気になる者があります。

「この虐め(暴行)を見過ごした周囲の者も加害者である」

OK、それも「正論」であるかもしれません。

ではその御託を述べる方に質問しましょう。
あくまでもこれは本件の「最悪の事態の予想」に基づいた質問です。

【Q1あなたはこの虐め(暴行)被害者と同じクラスの生徒です…】

腐れやくざの虎の威を借る腐れやくざの息子Y(身長180センチ)がいて、目の前でYに「たてついた」子がぼっこぼこにされてるとします…それも毎日のように。

暴行を「やめろ」と止めたクラスメイトAが次のターゲットにされました。

先生に現状をちくったクラスメイトBが次のターゲットにされぼっこぼこにされました。
Bはおかしくなって学校に来なくなりました。

腐れやくざの息子Yはまた今日も暴行を働いています
…さあ君は「やめろ」と止められるか?

【Q2あなたはこのクラスの担任の教師です。】

昨日腐れやくざ(Yの父親)から電話がかかってきました

「うちの息子をなんや責めたたそうやの。うちの息子ばっかりせめるんけ?そうそうおんドレの家は○○の○番地やのお、お子さんも○○幼稚園にかよっとんねてなあ」と

さらにこのクラスで最近目立ち始めた「虐め」「暴行」は、見様によっては「仲間内のじゃれあい・軽い喧嘩」と見れば見れんこともない案件でもある。

さらに虐められてるHも「親に問題があり…その子を親が虐待している」と以前から認識されている。家庭訪問や面接でもそのような事情はある程度つかんでいる。

さあ、どうしますか、どのような処置・対策をとりますか?

もちろんあなたは普通の教師で、若干体力やスポーツには自信はありますが、格闘技や軍事訓練を受けて、相手を物理的に無力化することなどはできるわけではありません。

別に教師や校長を擁護するわけではありません。事情を知るPTAの大人たちを擁護したいのではもありません。

場合によっては、周囲の子供は擁護したい。

ただ真剣に考えてもらいたい…評論的意見を言う人には…

大津市での事件について

今日は決して「論理的思考」ではありません。感情的である部分もありますし、限定的なものも含まれます。

まずは昨年にお亡くなりになった少年にお祈り申し上げます。

さて

この事件が起こった時(その日)、生徒から中学生の自殺があったことを聞き知りました。
同じ市内ですが、向学舎にはこの中学に通う生徒はいません(過去に一人いたことがありますが)ので、当事者ではありませんし関係者でもないことから、「そりゃあ大変だな」程度の「他人ごと」の感想しかありませんでした。

もちろん私の関係する子供には
「死ぬなよ。もし虐められて死にたいなどと思ったら、とりあえず俺に言え。助けたるから」
と半ば「理屈としては想定できる」程度の考えで言いましたが…

今回の件は調べようと思えば、いろいろ報道されていない部分や、ネット上で「流出」「拡散」していること以外の「事実」を調べることはできます。

でも調べません。

当事者ではないからです。
(もし私が過去にかかわった者でが加害者等であるならば、話は別です。その行為には私にも責任があります。…偉そうに「説諭」しまくっている責任です。かっこよくいえば…本当は「悲しさ」です。)

それよりも大切なのは、私の周囲で…少なくとも私が影響力を及ぼせる学校で本件のようなことが起こらないように、何をなすべきか考え実行することが大事です。

今回の報道や、漏れ伝わる「ネット上の情報」について、それが事実がどうかはわかりませんが、もし本当に「虐めによって自殺に追い込まれた」「現場教員はその虐めを止めることができなかった」「加害者の親は自分の子供が虐めなどしていないと言い張っている」のなら、これはもう悲しさやや哀しさをとおりこして「怒り」の感情が沸き起こります。

(同じ自治体の住人として忸怩たる思いもありますし、主権者としての「恥ずかしさ」もあります。
また「自分がなにもすることができなかった」という無念の情もない事はありません。)


おそらくネット上で「加害者・加害者の親の実名を晒せ」と「一生懸命」やっているものの中には、私よりも大きな怒りの感情を持ち、それが動機となっているものも少なからずいる事でしょう。

そういったものは自分が過去に(もしかすると現在も)虐めの被害にあっているからだと推測しています。

その「気持ち」もわからないわけではない…

しかし、過去に虐められ「死にたい」と思った人も、少し立ち止まって考えてほしいのです。
確かに虐められることは辛い、教師や親、はたまた周囲の人間が救ってくれない…というのはさらに哀しく辛いことであったともいます。

でも、「自殺していない」のですよね。

何とか、その困難を克服しているわけです…

虐められたから、救われなかったからといって必ずしも自殺するわけではありません。

何が違うか?

無論、自殺もケースバイケースですから一概にいう事はできません。
様々な自殺の研究によってある程度までは「分かって」います。

人間は「絶望の淵」に立っても自殺はしない…
絶望に直面した…それでも自殺するわけでもありません。ただし自殺する方向へ物理的に進む可能性は大きくなります。

私の現場でできる事は、虐めをなくすことではありません。大なり小なり「他を虐める」という事は日常生活の中であり得ます。

それがたとえば「自己の相対的優位を確認し満足するため」「支配欲」などの動機で起こったとしても、それはある意味、人間としての自然な「行為」であると思います。

もちろん、それらは本質的に「良くない」精神です。それが「良くない」という事は知らなければなりません。

相手が絶望するまでの虐めはしてはいけない

これだけは「最低基準」として厳守しなければならない事を教えなければなりません。

虐められている側が、「精神的苦痛」と「感じている」程度から、虐めの頻度や回数、程度がエスカレートしていくにつれ、その水準にまで達する可能性がある…という事です。
また、それは大きく個人差があります。

昔は「弱い者いじめをするな」とよく怒られた(拳骨とともに)ものです。
この言葉は、もちろん、「相対的優位性を確認する」ということが、いかに卑怯・卑劣か…という哲学観を教え・養うためにも良い言葉です。

「個人差による危険水準に達するまでの差」を鑑みれば、これほど説得力のある言葉はありません。


さてもう一つ

「絶望に至るまでに問題を解決してやる」と言うのが私のすべきことかと思います。

昨日、中学「1年生にはこういいました。今日2年生に言いました。

「もし学校で虐めらたら、まず自分でアクションを踏め。別にどついても良い。友達に相談しても良いだろう。それでもまだ虐められるようなら、親や先生に言え、自分からだ。自分で解決・克服することがまず基本だ。」

次にこういいました。

「もしかしたらそれで解決するかもしれないししないかもしれない。またもしかしたら『仕返しが怖い』などの理由で、親や先生に相談できないかもしれない…頼りない先生もいるだろう…その時はすぐにワシに言え。絶対解決してやる。どんな手段を使っても虐めを止めてやる…だから絶望するな」

関係する者が絶望するのだけは耐えられませんから…

もうひとつ言いました
「7・13には海猿を見に映画館へ行け。以上」


そのあと考えました、もう一言言わねばなりません

「そして次はお前が、他の者が虐められているのを救え。
それができる人間になれ。腕力でも、知恵でも、何でも良いから身に着けて強くなれ。」

原発問題を考えるためのひとつの視点

なんか世間ではネットを通じて「反原発集会・デモ」が「大流行り」しているようで、冷静なある友人も、関東在住のせいか多少「パニック」をおこすくらい「不安」が大きくなっているようです(苦笑)

まあ、仕方ありません。

そもそもが「放射性物質への恐怖」というものがあり、これは科学的理論的経験的にも実証されている事柄ですから。

あとは「どれほで薄ければ人体に影響はないのか」という事だけなのですが、これはもう科学でも「完全にわかる」という事は永遠にない事なのかもしれません…「まあわかった」と専門家が言う事を信じるしか他ありません。

今回のデモによって、改めて放射性物質の取り扱いがとても難しい事や、実際の事故によって大きな社会的影響が出ることを改めて知らされたのですが、それが漠然とした不安を大きくしてしまいました。

専門家の言う「安全基準」が信じられない…「人体に被害を及ぼすことはない線量」も「装置の安全対策やその規制」も…と言い出したら、あとはパンドラの箱を開けたがごとく、多くの人の不安は社会を席巻します。それがまた他の不安を大きくし…

さて、これがおそらく今の現状なのでしょうけれども、ひとつ物事を考えるための視点を提示してみましょう…

調べてみますと、まあ違う視点ですが同じことを考える人がおられましたので、調べる手間が省けましたw
http://qqcl25.blog103.fc2.com/blog-entry-1253.html外部リンク

「家庭用消費電力は26.87%である」というのが、このブログを書かれた人も私も言いたいことなのです。

私はこう考えます。

原発を叫ぶ人々は、その「根拠」に「電気は原発なしでも足りているではないか!」という考えがあります。

確かに大飯原発が再稼働するまでの1年以上の間、若干の「停電」はありますが、まあ「電気は足りている」と思ってしまいます。

それは多くの人が、家庭用の電気に大きく意識が言っている(もしくはそれしか考えていない。)からなのでありましょう。

対して、産業界の人や日本経済を大きく考える人は「原子力発電なしではやっていけない」と言います。それは産業用電力・業務用電力を考えているからです。

原子力は安価・安定したエネルギー源」というやつですね。それが73.13%を占めています。
(もちろんそれはすべてが原子力発電によるものではありません)

私が言いたいのは「割合が大きいほうが…」ではありません。
原発の云々を考える場合に、単に「不安」からではなく、また「自分のわかることで」考えて意見の言うのはいかがなものか…と言いたいのです。

感情やイメージで多くの人は「判断」し「言動」します。
そういうものですから仕方がないのですが…またその感情を無視することも到底できることではありません。

しかし、それだけでよいのか?

人命とエネルギー源の直接的対向がるのなら、考えるまでもなく人命を優先します。

はたして今がその決断をしなければいけない時なのでしょうか?

もう少し冷静に「73.13%」のほうをも考えて判断しても良い時期ではないでしょうか?

原子力発電所…なにが問題なのか?

原子力発電所の再稼働に抗議する人たちが、官邸前に集まったそうです。
1万人?2万人?15万人?(はいなかったと思いますが…朝日新聞ではそう報道しています。)
http://www.asahi.com/national/update/0629/TKY201206290577.html

学生のころから(もう30年近く前)原子力発電所に関しては、賛否両論を聞いて実際のところどうなのかわかりませんでした。

非常に安価で、資源の少ない割には高エネルギー消費が経済構造として組み込まざるを得ない日本としては現実的に頼らざるを得ない?頼るに足るエネルギーなのか…

いったん事故が起こった場合、技術的に制御不可能であり被害が広範囲に及んでしまう、未完成の技術であるのか…

3.11の震災で実際に事故が起こってしまった…

この現状を踏まえて、おそらく国論は2分されても良いかと、震災当時は思いました。

まあ先週のデモや今回の抗議行動は確かに多くの方が「反応」されていることはわかるのですが、「国論が二分」ほどではないことは確かです。

事故でわかったことは
①少なくとも事故現場から半径80㎞では、一時的にまたは長期的に人が住めない場所ができる。
②農産物・海産物等での被害や風評被害で、それら経済分野で経済的ダメージは国内外ともに大きい。
③国民の感情的な反応やパニック・パニック的な言動やその影響が大きい。特に「子供」を抱える親などでは…
④海外もしくは国内での観光業に大きなダメージを与える。
⑤①〜④が減少として目立つのであるが、日本への評価…特に国債引き受け国債の価格が暴落するほどの低評価はない。

などなんですが…

私が予測しましたのは、もし「80キロ圏までの避難や代替地の保障」「経済的ダメージへの損害賠償等」が、原子力発電所の発電コストに換算されるのならば、「安い発電方式」でなくなることから、その経済的要因で原発が「自然に」低減し消滅する…というものでした。

原子力発電が経済競争によって淘汰される…と言っても良いかもしれません。

それは将来的にには電力会社の「動機」にはなりえるかもしれませんが、今のところそのような方向はまだ明確には表れていません。

大飯町での反応を(報道からだけですが)見る限り、場合によっては近隣住民も、原発の経済的恩恵>まさかの時の被害(コスト等)と判断しているようで、これには多少驚いています。

まあ、関西広域連合などが言っているように(ドイツもそうなんですが)、現在の発電体制はあくまで「暫定的」であり「仕方がない」ことであり、将来的には原子力発電に変わる発電方式を具体化することが急務である…という考えが今のところ正論であるかと思っています。

ある原子力発電所の技術者が「どのように考えても燃料を完全にクローズすることはできない」…この技術者はそれを3.11以降に考え「脱原発派」に転向したのですが…が気になります。

もちろんその「クローズする技術」も研究され進歩するでしょうが、一体どこまで…という事です。

しかしながら、一部の感情的な反対派の人たちが「誤解」していますのは、「儲かりさえすれば国民の安全など…」という事です。

逆説的に言えば、電力会社が利益追求姿勢が強ければ強いほど、「御用学者」が「ムラの利益追求」の姿勢が強ければ強いほど、もう二度と事故は起こせないわけです。

不幸にも事故が起こってしまい、そのために「パニック」「パニックに近い」反応があった…実際に原子力発電の稼働が止められた…燃料棒はそのまま在るにも関わらず…

この事実は「原発で儲けたい」と考える人々に突き付けられた事です。

彼らの資本主義的な合理的思考に、ある種の「期待」をしています。

また、ある学者は「代替エネルギーの開発は大きな市場を生む」という考えも提示しています。これもまた合理的思考においては、たいそう食指を動かされる事でもあります。

決して「人道的」「道徳的」な考えではありませんが、資本主義的合理思考によって世の中は変化していく…もちろんそれだけではありません。また、その「合理性の判断」の材料には、感情的と言えども「民意」が含まれるのは、自由主義的民主主義の今日に限られることではありません。

これはもしかすると「シニカルな」見地かもしれませんが…私はそう思います。

12歳になったら…

今日、後輩である損害保険事務所の社長と話をしていて、あることに気づかされました。

12歳になったら、損害賠償責任が本人に発生すると考えたほうが良い

という事です。

「未成年者の損害賠償責任
小学校高学年(11〜12 歳)以下の者であれば、事理を弁識する能力のない者(責任無能力者)として、未成年者の監督義務者である親に損害賠償責任が生じます。(民法第714 条)
逆に未成年者に責任能力が認められると、未成年者自身に賠償責任が課せられます。
未成年者に対する責任能力の分岐点は、判例では11 歳前後から14 歳前後までと幅がありますが、だいたい12 歳あたりが分岐点の目安となっているようです。」

http://www.tou-an-kyo.or.jp/soudanjirei/5_list_detail.html外部リンク
これは東京交通安全協会のHPからコピペしたものですが、今日の話もこれと同様のものでした。

よく少年非行や犯罪について「少年法」の考えや「子供だからしょうがない、まあ大目に…」などの議論があるのですが、これが全くの「誤解」に基づいていることがよくわかります。

社会が「罪を問う」「反省を求める」という事がいったいどういったことなのか…処罰なのか教育なのか…まあいろいろな側面があるのですが、少年法では「罪を問わない」というものではありません。
ましてや「未成年であるからしょうがない」などという事は一切書かれていません。

「この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする。」
少年法第1章「総則」1条≪この法律の目的≫)

これは刑法に触法した少年(満20歳未満)に対する「取扱い」を規定しているものです。
まあ、これで「刑事的責任」というものはとらなければならないのだが、上述のように「性格の矯正・環境の調整」に配慮して取り扱う…と言っても良いでしょう。

問題は民事上の責任です。

これは一概に「12歳であればその責任を問われる」のではありません。まさにケースバイケースなのですが、判決の傾向がそうである…という事です。

これで私が一番思いますのが、

学校などで、同級生を殴ったり、消しゴムをとったり、器物を破壊したり…とまあ「たいしたこと」ではない場合もあるのですが…極論すればこれらもすべて「民事責任を負う」、中学生にもなればそうい可能性もあるという事を、子供自身に認識させる必要です。

「ごめんなさい」で済む場合ばかりではない…という事です。

更生しなければいけないし、更生することで信用は取り戻す?社会が受け入れる?という事はしますが、損害を与えたことについては、あなた自身が責任をとらなければなりませんよ

という事でありましょうか。

「子供だから許される」

この表現はとても「危険」な表現です。
更生の可能性も含まれていますが、その代わり保護者の監督・教育責任も問われます。
また12歳前後で、刑事責任に関しては配慮されたとしても、民事責任は負わなければいけない…

なによりも「被害者」のもつ悲しみや憎しみを受け止めなければいけない事は、未成年者であろうがなかろうが、変わらない場合がほとんどです。

「子供だからと言ってすべてを許されるわけではない」
12歳になるまでに教えなければならない事です。

称えるという事

この10年来ある高校のヨット部を応援しているのですが、このたび3年ぶりにインターハイの出場権を獲得しました。

私自身もとてもうれしい事です。

このヨット部にはOB・OGを対象とした練習や大会結果を報告するHPがあるのですが、そこにキャプテンが大会結果を報告したとたん、OB・OGから祝福のコメントや「拍手」が集まり始めました。

やはり…

祝福したいのでしょう。
中には自分が現役の時インターハイに出場した時の事を思い出し、自分を改めて見つめなおしながら祝福している人もいるでしょう。
また、自分が失敗した…努力が足りなかった、甘い見通しであった…などの苦い思い出を改めて思い出しながらの人もいるでしょう。

みんなそういう事をひっくるめて、祝福という儀式を行っています。

もう少しいえば、過去の自分を見直し、そこから何らかの教訓を得て今の自分に生かすために…
という事かもしれません。

これはオリンピックなどの「観覧するスポーツ」などでも似たような祝福の様子が見られるのですが、自分が高校生の時に全く同じスポーツをしていた…という事が感情移入をしやすくしているのかもしれません。

単なる「思い出」ではなくて、今も生きるOB・OGの歴史の場としてこのHPが見られていることに、ある種の感動を覚えます。

OB・OGが後輩を祝福する場…これは大切にしなければなりません。