6/11 自由について

ある友人がこのように言っていました…

「制約だらけの中から抜け出したい」

私は「それは何か違っているのではないか?」と答えました。

私が言いたかったのは「制約だらけの中(世の中)」という友人の表現および、その表現をせしめる社会の認識についてへの異議です。

「人間は生まれつき自由を持っている」などという論は、いわば誤解に基づくものか、観念的理想論を言っているにしかすぎません。
人間が社会的存在としてあるかぎり、何らかの他の人間と関連して存在します。
ですから、他の人間の考え・思い・哲学観の中でしか存在することになります。

まずは親でしょうか…親から餌を与えられ、自然環境や外敵から保護されない限り子供は生きていくことができない…どの動物にも共通した幼年期を過ごします。

身体的精神的諸能力が発達してきますと、その親からの保護なしでも生きていけるようになってきますので、それとともに親から自由でありたいと…行動を制限されたくない…と思うようになってきますのは15−18才くらいの少年期でありましょうか…

ここで誤解が生じます。

「親からの自由」という、限定した相手からの制限や干渉からの解放が、あたかも「すべての人からの解放」と誤解してしまう場合が多いようです。

中学生あたりの「わしが最強じゃ」などという態度…非行少年のみならず、普通の少年少女などが、あたかも自分が「王様のように」振るまいたがるのもその表れです。

まあ、ここらへんで「こわいおっちゃん」がいろいろと、世の中は怖いことがおおいんやでぇ…と教える必要があるのですがw

親が保護することによって、子供へは「社会からの干渉・制限」は直接受けることはありませんが、親の保護を拒否し「自由」であろうとしたとたん、その社会からの制約は「どっと押し寄せる」ことになります。

たとえば先の「刺青に対する社会常識がもつ偏見的理解」なども、ひとつの社会からの制約です…自分の哲学観だけではなく、客観的合理的観点から鑑みても「不合理」「不条理」な制約を受けることも少なくありません。

この制約も決して「社会の悪意」から生まれていることではなく、個々人が自己の安全を追及するための知恵として生まれた考え方に元ずく「偏見・差別」尚でありますから、肯定できないとしても全面的に否定できるものでもありません。

偏見・差別ですら人間が社会的存在であり、何らかの形で見知らぬ人とも関係して生きていかねばならない存在であることに由来しているわけです。

多くの人は誤解をしています。

自分の言動が社会から(少なくとも他の人から)好評価されることを望むのに対して、そうでない場合…特に批判・否定・避難された場合には社会を恨み、自由でない…制約されている…ことを嘆きます。

「自分にとって都合のよい社会」を望んでいるわけです。

ははは…

実はこの考え(「自分にとって都合の良い…」)が、どれほど他の人にとって「制約されている…」と思わせている事か…

社会的存在ということはそういうことなのかもしれません。

このような社会の中で自分の意思通りに(少なくともそれに近いように)動いていくためにはどうしたらよいでしょうか…力をつけるということでしょうか?たとえば権力者(大なり小なりの)を目指すというのも、そういった自由の獲得動機からなのかもしれませんが…

いや、ちょっと待ってください。

「自分の意思」というのも、社会的存在であるということから社会から影響を受けた…言い換えれば「社会から制約を受けた」ものであることに気が付かねばなりませんwww