2/21河村名古屋市長の「南京大虐殺否定」報道への感想

毎日新聞WEB版2013年2月13日

名古屋市河村たかし市長は20日の定例記者会見で、姉妹友好都市の中国・南京市の共産党市委員会常務委員らの訪問団に対し1937年の南京事件を 否定した理由について「姉妹都市だから『真実』を言わなくてはいけない。社会的使命を感じる。この問題だけはきちんとして、日本の将来の子どもたちのため にプレゼントしたい」と説明した。

 河村市長は同日午前、市役所を表敬訪問した南京市訪問団に「通常の戦闘行為はあって残念だが、南京事件というのはなかったのではないか」などと発言した。(以上引用終わり)

南京大虐殺」と表現される事実があったかなかったか…と言う議論はさておき

中国南京市の市民がこの表現を中国政府が用いたり、中国人の一部や日本の「サヨク」「教科書教条主義者」達が用いて、日本政府や日本人をいまだに責める…という事をどのように思っているか…ホンマ南京市民・元南京市民子孫はそんなことをやっているのか…

そういった現在の事実が明らかになってくる…少なくとも名古屋市民や子供らが知ることが大切でしょうね。
歴史認識であれば、日本人は「南京大虐殺などなかった。あるとしても多少の民間人への攻撃と死だ」と認識すれば良いし、中国人は「たとえ一人でも国際法上許されない民間人への虐殺である。1000万人1億人子虐殺されたかも知れない」とでも認識すれば良いのです。

お好きにどうぞ…できれば、その当時の夫々の政府・政権や軍についての功罪の両側面を見れもらえば、ちょっとは知性や理性を発達させる事に繋がります。

自分が過去に「虐待された」「苛められた」、また「無能であるために現在社会的地位や存在が低階層となっている」などの動機で、自己尊厳を自国民であるということのみを基盤にしかできず「他国を悪者にして」相対的優越感によって保とうとするネット上の「ネトウヨ」くんたちも

同じような自分の生い立ちの過程が「資本主義体制」や「いまだに残る軍国主義的思想・天皇制賛美思想と融合した封建主義的思想に反映された諸事象…すなわち厳しい親や大人の考え」のせいである…という考えに固執するネット上の「サヨク」も

皆、「アレ的な」自信の無い者の群れと言えます。

知性があれば、どのような経緯で南京市街で戦闘が起こり、その戦闘で何人の民間人が死に、そのうち何人が「ゲリラ」でなく無抵抗の市民であったか…を知ろうとしてもおかしくはありません。

まあ、それが「何人」であったとしてもいたって「趣味的研究」であり、その結果「日本が悪い・中国が悪い」などという結論も出るはずもありません。

無抵抗の民間人が戦闘によって死んだ

どの戦争でも戦闘でも、東京でも南京でも、広島でもベルリンでも、長崎でもパリでも…

同じことです。

そんな事実を知らしめ、中国南京市民と日本名古屋市民が対等にお付き合い…時には仲良く時には喧嘩しながら…できるようにすれば何かが生まれて来るでしょう。皆が今の自分に自信を持って前に進むことができるようになるのではないでしょうか。

自分の良いところ・悪いところ、他人のそれら…全部ひっくるめて認めあうしかないのですよ。

そうして、その中で「ちょっとでも前へすすもうや」と言いながらお互いに協力し力を出し合って未来を創っていけば幸せになると思います。

そのために自信を持てる能力と、対話・議論相手を知ろう・わかろうとする姿勢…好奇心や想像力が必要です。

2/22橋本大阪市長の「小中学での留年制度の提案」は…

2013年2月21日毎日新聞WEB

大阪市橋下徹市長が、小中学生であっても目標の学力レベルに達しない場合は留年させるべきだとして、義務教育課程での留年を検討するよう市教委に 指示していたことが分かった。法的には可能だが、文部科は年齢に応じた進級を基本としており、実際の例はほとんどないという。

 橋下市長は、市教委幹部へのメールで「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」「留年は子供のため」などと指摘。留年について弾力的に考えるよう伝えた。

文科省によると、学校教育法施行規則は、各学年の修了や卒業は児童生徒の平素の成績を評価して認定するよう定めており、校長の判断次第では留年も可能。外国籍の生徒で保護者が強く望んだ場合などに検討されることがあるという。

 市教委も「学校長の判断で原級留置(留年)できる」としているが、実際は病気などで出席日数がゼロでも進級させているという。担当者は「昔は長期の病気欠席などでごくまれにあったと聞いているが、子供への精神的影響も大きい」と話している。

こりゃあ興味深い…
「小中学で留年させるべき」

勿論橋本氏のいつもの「大げさな表現で驚かせ、そこから皆を考えさせる」という手法なのですから、これを文理的解釈で云々する事は意味がありません。

この提案の意図はなにか?留年という事の意義はなんであるのか…それを考えなくては無りません。

①留年による精神的影響というデメリットは当然考慮されるべき…
すなわち実際にこの措置はなされないと考える事が先ず必要です。

②各学年で未理解であるまま進級することの弊害

これは、「素人」の方はなかなか理解できていないことなのではないでしょうか。たとえ自分がそうであったとしても、そのような「都合の悪い事」はおそらく忘れてしまっている事でありましょう。

実際に中学卒業段階で、教科書の内容(英数理国社の主要5教科)を100%理解している者はほとんどいません。8割以上理解しているもので約10%〜20%であると言えます。

これは、教科書内容を範囲として出題される公立高校の入試問題の正答率を見るとはっきりします。

「入試問題は応用問題だから…」

ははは…「応用することができない基礎知識・基礎理論」というものが無意味であり、応用できないのならば知識や理論を解ったとは言えない…という事ぐらい職業経験を重ねた大人なら解っているはずですよねw

ちなみに高校卒業段階で、教科書の内容を9割理解(使えるように)すれば、京大や東大、もしくは国立医学部に合格する事ができます。

なぜこのような低い理解率になるのか…これは学習進度に問題があります。理解できなくなるのは前段階での学習において不完全な理解で終わっているために起こります。

たとえば掛け算の計算操作があやふやであれば、割り算での学習ではもっとあやふやになります。そのままで分数の勉強をすれば…

このようなことが6.3.3.の12年間積み重なれば、それはもう大きな知性の差が生まれます。

というか厳密に言えば(自己努力がないとすれば)ほとんどの者がある時点で、学校での学習によって知性を発達させる事ができない状況である…という事すら出来ます。

ですから「留年」させることによって、確実に知識や理論を各段階で身につけて、それから次の高次の段階に進み知性を段階的に成長させていく事ができます。

勿論、人間は機械ではありませんので「モチベーション」などの精神的作用が必要となります。①の点を配慮されなければならないのは、学習内容を理解していく上からも必要なのです。

さて
この橋本氏の提案は非常に重要な事を示唆しています。

正直申し上げて、高度に発達した資本主義経済の国では、そこに必要な労働者は知的能力の高い労働者です。それが低い者は「ある程度までしか」必要とされないわけです。

これは経済学での言われる諸法則からも示唆される事なのですが、「低賃金労働力確保のための工場の海外移転」などの現実の現象からそれを理解していただきたいと思います。

そういった中で求められる国民は…

そのような事をこの「留年制度の提案」は示唆しています。

2/23 やる気とは一体何?

さて今日は「やる気」という事を考えてみたいと思います。
「やる気を持たせることが大切」
「やる気があれば勉強はできるようになる」
「楽しい勉強でやるきがおこる」
「興味を持たしてやる気を出させよう」
「褒めてやる気を出させます!」

このような表現は、もう嫌なほどw学習塾をはじめあらゆる教育産業の広告で目にします。

「うちの子はやる気がないので、やる気を出さしてください」
「やる気さえあれば…いいんですけどねぇ」

こういったお言葉を御父母の方々からもよく伺います。

「やる気」とは一体何なのでしょう?

ちょっと視点を変えて「成績が良い人はやる気を持って取り組んでいるのか?」という事を考えて見ます。

自分のことで恐縮ですが、私は公立小中時代に、主要5教科はほぼオール5の成績をとる「成績の良い人」でした。勿論トップの公立進学校に進学をしました。(そこで見事に「崩れて」しまうのですがwww)

さて小中学時代の私に「やる気」があったのか?といわれれば私は「No」としかこたえられません。

確かに「クラスで1番」「学校で1番を争う」などの結果は、相対的な優越感を感じられる者でしたので、テスト前には高得点を目指して試験勉強を頑張ってやった記憶はあります。

また家庭も教育熱心でありましたので、成績に対する評価は厳しいものでしたので、それが大きな圧力になっていた事も否めません。

少なくとも「勉強内容に対する興味」などはほとんどなかったように思えます。

できれば一切の勉強をせずに遊んだりスポーツをしているだけで暮らせないかな…と考える普通の少年でした。「勉強(そのものの)のおもしろさ」など全く記憶にありません。

私のこの姿勢や精神状態が決して良いものとは思いませんが、少なくともこの経験から、
「やる気がなくても、興味すらなくても良い成績はとることはできる」と、私は言い切ることができます。

さて、ここで読者の方は「違和感」を感じておられる事と思います。

「やる気」という言葉が表すものが、とても曖昧であるがために、それぞれの方にそれぞれの「イメージ」があるがためにおこる「違和感」なのではないでしょうか…

さて
「やる気」と似た言葉で「動機」「動機付け」と言う言葉があります。

企業活動の中で「労務管理」「人的資源管理」と名づけられた、管理論…いかに労働者を有効に働かせるか…といった視点で研究が進められたものです。

一生懸命働くために動機を与えることが大切。その有効な動機とは何か?

もしドラ」でおなじみのP.Fドラッガーなどもそれを研究しています。

勿論この研究のベースは心理学にあります。
「行動を引き起こす意識的・無意識的原因」を動機と定義するのが普通です。

「生得的動機と社会的動機」「内在的動機づけ・外発的動機づけ」などは皆さんもどこかで(会社の研修など)でお聞きになっているかも知れません。

さてこれら心理学や経営学での研究でも明らかなとおり、この動機や動機を喚起する動機付けもいたって「多面的・副次的」であり、「興味を持たせる」「褒める」などがさも「決定打」かのようなものであるとは示唆してはいません。

ようは「いろいろある」という事のようですwww

さあ、話しはわけがわからなくなってきました。

いったい「やる気」とは何なのか、子供の「やる気を引き出す」などという事ができるのでしょうか?

勿論、心理学的・人的資源管理的な様々な手法を、手を変え品を変え用いることでそれも可能でありましょうが、もうひとつ「深いところ」を知っておこなわなければそれも有効ではありません。

第一「「行動を引き起こす意識的・無意識的原因」に何があるかを知らなければなりません。

有名な心理学者のマズローと言う人は人間の行動の基盤としての「欲求」を5段階に階層化し説明しました。 (①が低位で⑤に向かうほど高い欲求です)

①生理的欲求(physiological need)
②安全の欲求(safety need)
③所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
④承認の欲求(esteem)
自己実現の欲求(self actualization)
私は子供の「勉強面でのやる気」というものもこの5段階を考えていかねばならないと考えています。

たとえば私の先の例は、①と②…ようは宮口家で安全に生存するための動機で勉強していたわけですから、高校生になって「独立・自立」を意識するようになれば、当然面白くも無い勉強を放棄してしまう結果となりましたw

また「相対的優越感」なども、非常に低次元の心理でありますから、「他の方法で相対的優越感」を味わおうと、バイクに乗ったり大人びた遊びをして誤魔化す事も十分可能です。

「褒める」などの手も④の「承認の欲求」を満たすための方法としては一定有効なのですが、高い能力や自己信頼感が無ければ、「空虚な煽て」に成り下がりますので、「ほめれば良い」というものでもありません。

やはり④⑤まで勉強することの意義を関連付けなければ、本来の自発的自主的なエネルギーとしての「動機」…すなわちやる気なのですが…は出てきません。少なくとも学習に真摯に取り組む姿勢が長期的に継続しないわけです。

キーワードは「自己尊厳と使命感」でありましょうか…

どうも、学力を大きく伸ばし社会へ立派に羽ばたいていった向学舎OB生を見ていますと、そう感じます。

どのようにしてそれらを、から子供が自分で育んでいける環境を作るか…そのきっかけを与えるか…

只管、勉強をさせる、とにかくやらせると言うのも案外と良いのかも知れません。
先ずはやらせる。やらせながら学習効果を実感させる。
同時に、その到達形を(単に○○高校・大学に合格ではなく、社会で活躍する優秀な方々)を見せながら…

やる気は後からついてくる…というよりだんだん高い次元のやる気になってくる…
こんな感じなのでしょうかね。

2/27「負けず嫌いの性格」について…

よく言われる事なのですが

「人生で成功する人の多くは負けず嫌いの性格をもっている」
「勉強やスポーツなどで優秀な成績を修めた人はの性格は、負けず嫌いというものが多い」

まあ、ビジネスで成功した人や、プロスポーツ選手・オリンピック選手などのインタビュー番組や手記などを読みますと、それを感じるところは大です。

では「負けず嫌いの性格」とは一体どういう事柄でしょうか?

心理学の世界ではこの「負けず嫌い」を大きくは2種類に分けて考えています。
負けず嫌いというのは「自己顕示性が強い」ということに関連してきますが、それがどういった心理から生まれてくるか…ということで「外向型」と「内向型」に分類されます。

外向型顕示性気質「人より勝る事で優越感を感じる」
(特徴)
目立ちたがり・根本的に自分に自信を持っていて、うぬぼれが強い・普段から人に向かって自分自身の存在をアピールする・積極的に人に勝とうとする・自分が一番でないと気が済まない親分肌でリーダーになりたがる・何かの分野で大きい事をしたいと思う・パイオニア精神

内向型顕示性気質「人を負かす事で優越感を感じる」
(特徴)
人見知りでシャイ・自分に自信が持てないことを解消する為に、人に注目されたいという願望普段はおとなしいが人が集まると喋って人の目を自分に惹 きつけようとする・勝てない勝負には最初から挑もうとする・小さいグループを作って、そこでイニシアチブをとろうとする・過去の事を気にする・噂話を好 む。

参考「新しい心理学」http://www.geocities.jp/new_psych/kenjisei.htm

まあ、上記のような傾向は誰にでもあることです。また、時と場合によってはどちらの傾向もあわせて持つ場合もあるでしょう。

どちらかと言えば、「外向的」の方が勉強やスポーツ面での伸びは大きそうです。

「やってみなはれ」的な課題の提示ができますので、指導者としてはずいぶん「楽」な事でもあります。

ただし「自分がトップになれない」という状況のときに「粘り強さがない」という短所もこの性格の者にはありますので、そのようなときの「励まし」が必要でもあります。

「内向型」の場合は指導がとても難しい場合があります。そもそも「できること・勝てる事しかしない」というものですから、ひとつひとつ小さな成功体験をしていくことで「自信がついた分だけ」はチャレンジする事ができます。

まあ、このタイプは成長するのに時間がかかりますから、結果的に(総体的に)競争に負ける事によって、ますますチャレンジしていく範囲を狭めてしまいがちですので。そういった注意も必要です。

どちらのタイプも一長一短なのですが、これがまだ外部からの影響(訓練や指導)で可塑性をもった「性格」であるのならば良い方向に導く事はできそうです。

問題なのは、表面では「負けず嫌い」と見えるが、それがもっと深いところでの問題から生まれている場合です。これは私のような素人では手を出す事は不可能です。

2/28「原子力発電に関しての議論」…正しい議論の姿勢

2012年2月28日毎日新聞WEB

東京電力福島第1原 発事故を調査してきた民間の「福島原発事故独立検証委員会民間事故調)」(北沢宏一委員長)は27日、菅直人首相(事故発生当時)ら 官邸の初動対応を「無用な混乱やストレスにより状況を悪化させるリスクを高めた。場当たり的で、泥縄的な危機管理」と指摘する報告書をまとめた。官邸の指 示が事故の拡大防止にほとんど貢献しなかったと総括。緊急事態の際の政府トップによる現場への介入を戒めた。

まあ、報告書や報道を見る限り、かんちゃんはただただパニックを起こしていた…それ程度の人物であったという事がよくわかります。

所詮は「文句だけを言う市民運動あがり」の小物ですから仕方がありません。被害にあわれた方にお悔やみとお見舞いを申し上げる事しか今となってはできません。

もうひとつは、政権をになうものを投票するときに、リーダーとしての資質や能力を勘案しなければならない事を主権者として心に刻む事でしょう…

今回の民間報告書につきまして、私が気になりましたのはその点ではありません。

本日の産経新聞朝刊でこのように報道されていました。
(おそらく福島原発事故独立検証委員会の報告書「第9章」の内容だと思いますが、まだネット上で発見しておりません…)

■以下産経新聞2012年2月28日朝刊より転載
http://sankei.jp.msn.com/science/news/120228/scn12022800410006-n1.htm外部リンク

報告書は、安全神話の背景となった2つの「原子力ムラ」の存在に言及した。原子力行政・産業に加え、財界・政界・マスメディア・学術界を含めた「中央の原子力ムラ」と、積極的に原発との共存を選び続けて自らも安全神話を構築してきた「地方の原子力ムラ」だという。

 報告書は、中央のムラは原発導入の初期、リスクを明示せずに安全性と技術的先進性を強調し、原発を受け入れる素地を作ったが、反原発運動が盛り上がると、さらに神話を強化する方向に動いた−とみる。

 事業者が事故対策 を取れば、反対派が訴える安全性への疑念を肯定することになる。それを否定するため、ムラは「原発の絶対的な安全性」を唱え、 事故想定を許さない環境ができたと、報告書は説明。「原理原則に基づくイデオロギー的反対派の存在が『安全神話』を強化する土壌を提供した」と指摘した。

(以上産経新聞からの転載おわり)
私はこの内容に関心を持ちました。

本来原子力発電の推進は、資源のない(と当時は思われていた)日本が、高度な資本主義生産を安定した価格でのエネルギーを得る事によって可能にするために…工業国として国を富ませると言う目的から進められてきたはずのものです。

別にそれが原子力であろうとなんだろうとかまわないはずでありました。

アメリカの日本経済支配の意図はさておき、原子力はいたってその目的に適うものである…これに大きくは異論はないはずです。

まあ、推進派の主たる動機はそうであったと考えることができるでしょう。
(CO2を削減するクリーンなエネルギーは最近になって喧伝された事ではありますが、化石燃料と比較すれば勿論これも推進する動機のひとつとなりえます。

その中で、「原発反対派」と呼ばれる人たちが、特にその安全性に疑問視をしたのですが、その論点はやはり技術によって放射性物質を制御できるか否か?原子力発電所の安全性に関しての疑問からであったように思えます。

私がちょうど学生であった1980年初期(スリーマイルの事故が1979年でしたから)に、反原発運動も結構盛んでありましたが、当時「サヨク」 であった私ではありますが「原子力の平和利用」についてポジティブな考えを持っていましたので、その運動には全く参加しませんでした。

というか…最初から「NO NUKE!」という結論があり、「原発はダメだ」という根拠ばかりを探して出し合う「勉強会」や、その結果をただただ流布宣伝したり関西電力や政府に「抗議する」という姿勢に違和感を感じた…というところもありました。

今回の報告書で明らかになった、「盲目的な安全神話に自らも縋りつく原子力ムラ」と「イデオロギーに固着してNO NUKEという絶対的結論を持 つ反対運動」の対立が、事態を複雑にし、結局は安全対策に問題を生み出した…という分析は「どちらに責任があるか」と言う視点ではなく、「議論はどうある べきか」と言う観点からはたいへん興味深いものでした。

両者は、全く合いよれない…180度真逆にある二つのベクトルのようです。
簡単に言えば「YESかNOの二元論」であったわけです。

世の中の事象に「絶対的正当性」もなければその逆も本来はありえません。ポジティブな面とネガティブな面の二側面は必ずある…という事はある程度人生の中で様々な経験(特に産業社会の中での経験)を積むと自然に理解できる事です。

プランAとプランBが対向する意見でありこのどちらかを選択しなければならない場合、
「相反する意見をつき合わせて白黒をつける」といった問題の決着を図る場合はほとんどなく、プランA.Bをつき合わせて新たにプランPを創る…といった議論をします。

ようはどちらのプランも「たたき台」として考えていくわけです。

議論の結果、ほとんど「プランAのようなもの」になったとしても、議論の中で「プランB推進派」が述べるプランAの問題点を解決したものが新しい「プランAダッシュ」になるでしょうし、プランBのポジティブな面を取り入れたものになる場合は少なくはありません。

ある私の友人は、議論の際の「お互いの歩み寄り」「お互いの論者が分かり合うこと・想像すること」を強く主張されます。私はこれを「ベクトルの合成」になぞらえて理解しています。

Aというベクトル(論)が方向の異なるBというベクトル(論)と突きあう・向かい合う事によって、全く新しく、方向も量もA・Bとも異なるベクトルPが生まれます。

それがふたつのベクトルがなす角が180度であれば(真逆)であればどうなるでしょう…
ただお互いに打ち消しあう事しかしません…

今回の「ムラ」と「反対運動」の「議論」はまさにそういったものであったと言えると私は考えます。

ではなぜ、「180度」の関係になったか…
本来どちらとも(どちらかでも)日本の経済発展やその中での国民の幸福を考えたのならば、180度真逆の方向を向くはずもありません。

自分の利己的な経済的利益や社会的地位・名声を目的にしたか
主義に基づいてそれに従順な自己を目指しただけなのか
原子力エネルギーのメリット・デメリットを夫々突き詰めながら比較考量しようとしたのか、そもそもその姿勢すらなかったのか…

まったく感情論と下世話な利己的利益追求の意思しかそこになかった…そこまでは酷くはないでしょうが、その傾向があったとしたら…

そういったことが生んだ悲劇なのかもしれません。

議論によって個々人の論というベクトルを合成する…この議論の目的を忘れてはいけないと改めて思います。180度にならないために「歩み寄る」「相手を想う」「想像する」という心構えが議論には必要になるのでしょう。

戦争を子供達にどう教えるか

戦争・乱・変…日本の歴史を紐解くと、まさにそれは「戦争の歴史」と言っても過言ではありません
これは日本固有のことでもなく、世界中どの国でも、いや国と国が陸地で繋がりあう国ほどその傾向は強いものです。

■日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
■前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ご存知の憲法第9条なのですが、これが1946年にできたときに「押し付けられた」ものなのか「自主的に日本国民が反省し制定した」ものなのかはさておき、とても高い理想に基づいているという事は言えそうです。

■日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、 われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、 名誉ある地位を占めたいと思ふ。

これもまたご存知のように憲法前文ですが、とても理想主義的なものであります。
特に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」というくだりは、理想度合いが高いのか非現実的なのかわからないくらいで、宗教的表現ともいえるものです。

これらは「想い」としては間違っていません。これを基本として戦争を考える事は正しい姿勢であると私は考えています。

憲法がどうあるべきか」…すなわち諸法を規定する最高法規である憲法の性格からはこの9条は現実に対応できるものではないのではありますが…

国どうし民族間相互、ある共同体相互の衝突を、戦闘行動を含む武力で解決するという事は望ましくない…という観点からスタートするとして、先ず何から教えるべきでしょうか…

そう

戦争の歴史です

世界の歴史は戦争の歴史である…と前述しましたが、「本当の戦争」(著クリス・ヘッジズ)と言う本にはこう書かれています。

- 世界が平和だったときはあるのですか? -
3400年にわたる人類の歴史で、人間の世界がまったく平和だったのは268年間、すなわち全体の8%にあたる。

日本ではいったいどうなるのでしょうか…
こういった視点での勉強は大変興味深いものです。

なぜその戦争は起こり誰が何を目的にしたか?戦争の結果「利益」はどのようなもので誰が得たか?

こういったことを考えていきながら日本国内・対外国の戦争(内戦・紛争も含め)歴史を見ていきますと、西南戦争までは国内のイニシアチブ争いであった事がよくわかります。(一部外国に対する「防衛戦争」「侵略戦争」がありますが)

島国の中での権力闘争としておこなわれたというのが明治時代までの主な戦争(内戦)です。

そういった事を鑑みるならば、なぜ子供達が(大人たちの多くも)いわゆる「戦国時代」に興味を持つのか不思議でしょうがありませんwww

もしかすると、無秩序の状態の中で戦闘能力が高ければ権力者になれるということの可能性に魅力を感じているのでしょうか…

この時期の戦闘能力が高い経済力(高い農業生産性や商業の発達等)によって支えられていた事を看過しているとしか思いようがありません。

次に日清戦争(1894年)日露戦争(1904年)第一次世界大戦への参戦(1914年)は一体当時の日本の動機は何だったのでしょうか…

私はそれを1920年に発足した国際連盟常任理事国に、イギリス・フランス・イタリアとともに日本が常任理事国に名を連ねた事が、この3つの大きな戦争の日本としての意味を表すものと考えています。

それは19世紀〜の帝国主義的領土拡大の世界の中で、自国が侵略される恐れの少ない(同時に自国が外国に侵攻して領土を拡大する可能性も含むのですが)先進国…帝国の仲間入りを果たしたという結果だからです。

明治期の「富国強兵政策」というものが、当時の先進国の日本への覇権・侵攻を食い止めるためのものであった事は、周知の事実です。いわば「防衛目 的」なのですが、同時の世界は「積極的防衛」でない限りいつなんどき自国が他国に支配されるか…といった状況であったのですからコレは仕方ありません。

1932年「満州事変」が起こりその後1937年に日中戦争が始まります。1940年太平洋戦争に参戦していくわけなのですが、ここでの日本の動機・目的はいったいなんだったのでしょうか?

「積極的防衛」「侵略」…

さあこれはどうも簡単にわかるようなことではなさそうです。
世界の1等国となった国ですから、その後の国家のあり様を考えた当時の人々の思いは一様ではなかったでしょう。

当時の日本は民主主義国家…少なくとも憲法と議会という民主主義的意思決定システムを持つ国…です。また天皇が主権者であったとしても、天皇個人の考えで政治的意思決定がなされたわけではありません。

たしかに1937年以降急速に政治が「軍国化」したという事は言えるのですが…

たいへん興味深い歴史の様々な事実がこの1932年以降の日本から見えてきます。決して「軍国主義全体主義化した侵略国家」や「戦争は全て防衛戦争であった」という決め付けでは正しくこの時期の戦争を見ることはできません。

さて。このような方法で戦争の歴史を見る事によって、「戦争とは何なのか」という問題の答えに1歩近づくことはできそうなのですが、それで答えが出るものではないという事を知らねばなりません。

生物学・社会学・心理学・経済学・もちろん政治学…いろいろな学問によって戦争の分析がなされています。コレラを学ぶ中で戦争のあらゆる側面や、それが起こる様々な原因の一つが解ると思います。

しかし、そうしたとしても「戦争がわかった」という事はおそらくないでしょう。ましてや「戦争を起こさないための方法」「平和のための方程式」…このようなものはおそらくない事かと思います。

私は、そうであることを知れば良いと思っています。
そしてどうしても戦争(内戦や紛争やテロも含み)起こしてしまうのが人間である…という事を知り、いかにそれを避けるか、もし起こった場合初期のうちに解決する方法を講じる…すなわち戦争を制御する必要がある…

このために私たちは学び、考え続けなければならないのだという事を子供達に教えるべきと思います。

ただの現実対応主義も、願うだけの原理的平和主義も役に立たないという事を教えるべきことだと思うのです。