6/11 自由について

ある友人がこのように言っていました…

「制約だらけの中から抜け出したい」

私は「それは何か違っているのではないか?」と答えました。

私が言いたかったのは「制約だらけの中(世の中)」という友人の表現および、その表現をせしめる社会の認識についてへの異議です。

「人間は生まれつき自由を持っている」などという論は、いわば誤解に基づくものか、観念的理想論を言っているにしかすぎません。
人間が社会的存在としてあるかぎり、何らかの他の人間と関連して存在します。
ですから、他の人間の考え・思い・哲学観の中でしか存在することになります。

まずは親でしょうか…親から餌を与えられ、自然環境や外敵から保護されない限り子供は生きていくことができない…どの動物にも共通した幼年期を過ごします。

身体的精神的諸能力が発達してきますと、その親からの保護なしでも生きていけるようになってきますので、それとともに親から自由でありたいと…行動を制限されたくない…と思うようになってきますのは15−18才くらいの少年期でありましょうか…

ここで誤解が生じます。

「親からの自由」という、限定した相手からの制限や干渉からの解放が、あたかも「すべての人からの解放」と誤解してしまう場合が多いようです。

中学生あたりの「わしが最強じゃ」などという態度…非行少年のみならず、普通の少年少女などが、あたかも自分が「王様のように」振るまいたがるのもその表れです。

まあ、ここらへんで「こわいおっちゃん」がいろいろと、世の中は怖いことがおおいんやでぇ…と教える必要があるのですがw

親が保護することによって、子供へは「社会からの干渉・制限」は直接受けることはありませんが、親の保護を拒否し「自由」であろうとしたとたん、その社会からの制約は「どっと押し寄せる」ことになります。

たとえば先の「刺青に対する社会常識がもつ偏見的理解」なども、ひとつの社会からの制約です…自分の哲学観だけではなく、客観的合理的観点から鑑みても「不合理」「不条理」な制約を受けることも少なくありません。

この制約も決して「社会の悪意」から生まれていることではなく、個々人が自己の安全を追及するための知恵として生まれた考え方に元ずく「偏見・差別」尚でありますから、肯定できないとしても全面的に否定できるものでもありません。

偏見・差別ですら人間が社会的存在であり、何らかの形で見知らぬ人とも関係して生きていかねばならない存在であることに由来しているわけです。

多くの人は誤解をしています。

自分の言動が社会から(少なくとも他の人から)好評価されることを望むのに対して、そうでない場合…特に批判・否定・避難された場合には社会を恨み、自由でない…制約されている…ことを嘆きます。

「自分にとって都合のよい社会」を望んでいるわけです。

ははは…

実はこの考え(「自分にとって都合の良い…」)が、どれほど他の人にとって「制約されている…」と思わせている事か…

社会的存在ということはそういうことなのかもしれません。

このような社会の中で自分の意思通りに(少なくともそれに近いように)動いていくためにはどうしたらよいでしょうか…力をつけるということでしょうか?たとえば権力者(大なり小なりの)を目指すというのも、そういった自由の獲得動機からなのかもしれませんが…

いや、ちょっと待ってください。

「自分の意思」というのも、社会的存在であるということから社会から影響を受けた…言い換えれば「社会から制約を受けた」ものであることに気が付かねばなりませんwww

6/4「サービス業」としての教える仕事③

http://d.hatena.ne.jp/co-gakusya/?_ts=1338295220
http://d.hatena.ne.jp/co-gakusya/20120530/1338378250
からの続きです。

サービス業に限らずどのような業においても、顧客に対してなんらかの「利便性」「満足感」などを教えることを少なくとも建前的には重要とされています。(経済学的には、業の主体者の単なる「利潤追求」を目的にしているだけなのですが…)

塾の与える「利便性」「満足感」というものはどういうものなのでしょうか…

「②」で書きました「学習内容を教える」や「わからないところを説明する」というのももちろんそのためのものです。

他にも「ノートのつくりかた」「テスト前の勉強の取り組み方」などの勉強の方法を教えることもそうでしょう…

でも、あえて言いたいと思います。

何も教えないことこそ最高の塾のサービスである…と。

考えてみますと、勉強ができ、学習する能力を高めますと、良い成績がとれ、良い学校へ進学することができます。

その目的はなんだったでしょう…

少なくとも向学舎では、「社会的有用性を持つ能力を身に着けた人間になること」を目的とします。それも社会人になった後も、持ち続ける事…すなわち、変化する社会に対応して新しい技能を習得しr続ける、成長・発達し続ける人間になることを目的としています。

そういう主体は、まず、自分で自ら新しい知識や技能を得るために動くことができる…自分で勉強ができる人間でなければなりません。

学校や本(教科書・参考書・専門書)、インターネットから得られる知識、また現実に出会ういろいろな人…これらはすべて「情報」です。

自らを学ぶ主体と位置付ければ、自分が経験すること、見聞きすることはすべて自分が成長するために「利用すべき」情報となるわけです。

わからないこと・必要だと思われることを調べる。そして考え、また調べる…他の人に聞かねばわからない事は訪ねて教えてもらったり、ヒントをもらえばよいでしょう。

実は、そういうことができる大人は極端に少ないわけです。

「教えてもらわねばわからない」と考えているからです。

もちろん、「教えてもらわねば…」という場合もあります。しかし、すべてがそうじゃあありません。(おそらくほんの一部でしょう。

自ら学べる人は「他人から教えてもらってわかった・できるようになったという事はほとんどない。わかったと思ってしまうダケである」という事を知っています。

教えてもらった事は、それを自分で考えたり使っていく中で初めて「わかる」のであって、教室などで教えてもらったその時に「わかる」というのは、いわば「誤解」に近いものがある…という事です。


丁寧に教えてもらえる…という事で確かに一時的な満足を得ることはできます。
しかし、それが「いつでも丁寧に教えてもらえる」と思うようになれば…もうこれは一種の依存ですねw

自ら学ぼうとする姿勢を正とし、そういった主体を作ることが塾の目的だとするのならば、明らかにこれはマイナスです。

教えてもらう事は、あくまで自分で主体的に学ぶための契機であったり、必要最低限にしなければなりません。



何も教えない塾

それが最高のサービスを提供する塾なのです。

5/30「サービス業」としての「教える仕事」②

昨日からの続きです


さて再度「サービス」という言葉を整理してみましょう。

①その時点でのcomfortableを得る・満足を得る・快楽を得るために便宜を受ける…これが「サービスを受ける」ということの一般的な解釈でしょう。

②「サービス業」「サービス産業」という文言にはこの①のような意味は含まれません。農漁業や製造業でない業はすべてサービス業と分類されています。中には①のような満足を与える業も含まれていますがすべてではありません。

簡単に言えば、風俗業やリゾートホテル、または享楽としての飲食を提供するレストラン等は①のサービスを提供する業と言ってよいのだと思います。しかしその他の「サービス業」はそれぞれに多少の違いはありますが、①であるとはいえない面があります…

まさに無機質な「行為によってなんらかの利便を得た」というだけのことです。

(もちろん、店員なりが「にこっと笑う」「愛想がよい」などは人間関係を円滑にするために必要な行動ですから、あったほうがお互いよいに越したことはありません)

まあ、よく店員に対して「俺様は客やど、俺様にかしずかんかい」などといわんばかりの偉そうな態度をとるものがいますが、それは明らかに「勘違い」で、それなら「チップの一つも払え」と言いたくなります…日本の一流ホテルや料亭のようにそのためのサービス料を支払っている場合とそうでない場合は明らかに異なるのですが…まあ、そのように「店員に威張る」ような者は、一流ホテルや料亭とは縁のない低階層なものであったり社会的地位の低い無教養の者ですから仕方がありませんw

話をもどしまして…

それでは、塾という「サービス業」はどうあるべきなのでしょうか?
どのような「行為」がサービスの内容なのでしょうか…


※以下用いる「サービス」という文言は、「comfortable・享楽・満足を与える」という意味ではなく、「材や商品ではない行為の内容」として用います。ご注意ください。

簡単に「塾のサービスは勉強(内容)を教えること」と解釈する人が多いと思いますが、私はそれは間違っていることである思います。

塾は別に勉強など教えなくても良いのです。いや、教えることが逆にサービスすることに逆行する場合ですらあるのです。

塾というサービス業の存在意義・その目的はいったいなんでしょうか?
①テストの点・成績を向上させる
②○○中学・高校・大学に合格させる

こののような目的は当然あるのですが、私はさらに付け加えます

③成人後に社会的に有用な能力を持つ人間として成長できる主体を育てる

ということです。

単に文部省が決める学習内容を理解しマスターしたとしても、程度の高い学校に入学できたとしてもそれだけでは(極論すれば)何にもなりません…昨今では「大学卒業者の就職率の低下」が社会問題になっています。もちろん「程度の低い大学卒業予定者」ほど就職が難しいという傾向はありますが、すべてがそうでもありません。「程度の高い大学卒業予定者」でも就職するのが難しい人がごまんといます。

社会に出ても、高学歴(程度の良い大学卒業)者が必ずしも活躍できているわけでもありません。

「社会的に有用な能力」といいますのも、産業社会の速い変化は、絶えず新しい技能や知識を要求します。それに合わせて(先んじて)再教育・再訓練・再学習が必要です。社会で活躍できる(社会で必要とされる)人は、絶えず新たな知識や技能を得るために自己啓発・訓練を行い、発達し続ける人…といっても良いでしょう。

それなしでは社会的有用性を持ち…少なくとも持ち続けることはできません。

簡単に言えば、「能力を伸ばすことができる」能力といえるのかもしれません。

私は①②の目的はあくまでも最終的な目的である③のための、過程であり手段や短期的目的だと考えています。

さて、目的がそうであるならば、塾で提供するサービスは、単に「学習内容を教える」というものだけではなくなります。またそれよりももっと大切なサービスがあるはずです…

以下③に続きます。

「サービス業」としての教える仕事①

そもそも「サービス」とは何か?

「サービス業・産業」などといわれる経済・経済学上では次のように定義されています。

①同時性 売り買いした後にモノが残らず、生産と同時に消費されていく。
②不可分性 生産と消費を切り離すことは不可能である。
③不均質性 品質は一定ではない。
④非有形性 触ることができない、はっきりとした形がないため、商品を購入前に見たり試したりすることが不可能。
⑤消滅性 形のないものゆえ、在庫にすることが不可能である。

このような性質を持つ(全て兼ね備えているとは限りませんが)もの(事)をサービスと定義しています。(参考 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9

学校・塾に限らず「教える」という事はこのサービスを提供している事には間違いありません。

さて問題になるのは…「サービス」という言葉の与えるイメージが曖昧であるがゆえに、間違った「サービスの提供・提供する際の考え方」が生じる事です。

皆さんは「サービス」という言葉をどのようなイメージで捉えていますか?

(1)相手のために気を配って尽くすこと。
「家庭―」「―精神」
(2)品物を売るとき、客の便宜を図ったり値引きや景品をつけたりすること。
「少し―しましょう」「出血大―」「アフター-―」

三省堂大辞林WEB版にはこのように出ています。
(参考 http://www.weblio.jp/content/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9

多くの一般の方々はこのように「サービス」という文言にイメージを持ち、この言葉を使う際に「気を配りつくす」なり「便宜を払う」という意味で用いているはずです。

ここから「教えられる側」は、自分の主体的努力なしで、「塾」という「サービス機関」に通いさえすれば、講師から「便宜を払ってもらい」「気を配ってもらいながら」教えてもらう事によって、良い成績がとれたり志望校に合格できる…自然に…と思ってしまうのかもしれません。

まあ、業界のほうも「確信犯的に」その考えに乗っかった…またはぞれを触発するような宣伝をしていますので、間違っているのはどちらなのか…情けない話しですがそれが現実のようです。

まあ、そこまで酷くはないにしても、「自分に合わせて教えてくれる」「痒いところに手が届くように教えてくれる」という事を期待している人がほとんどでしょう。

もう少し言えば「解らないところを丁寧に教えてくれる」という事は塾が提供する「当たり前のサービス」と思っているかと思います。

さてそれは正しい事なのでしょうか?
(明日に続く)

表現するという事

最近はブログ等で誰でも自分の意見を表現し世間に公開することができます。

これはポジティブなことでもありまた、ネガティブな側面を持っている事でもあります。

従来、弱者は意見を言う機会はありませんでした。
いかなる意見であれ、社会的に権力を持ったり富をもつ事によってのみ意見を言う機会を与えられていた…といっても過言ではないでしょう。

国や地方自治体のアナウンス、いわゆるマスコミと言われるテレビや新聞などがそれです。

私が学生の頃「FM放送は誰にでも簡単に出来る表現の方法である」と言われましたが、現在の「ネット社会」はそれと比べても格段に簡単な方法を提供してくれています。

一昨年前のチュニジアで始まった「ジャスミン革命」など、一連の「アラブの春」と呼ばれる運動も自由な表現方法を手に入れた民衆によって起こされた…と言われています。

それが本当に「民主革命」であり「独裁者から民衆か解放される」という良いことかどうなのかという判断はさておき、(私は、先進大国の思惑やイスラム急進派などの意図や思惑が大きく影響されていることと推測していますので)大きな出来事を、民衆の自由な表現が引き起こした…という事実は認めざるを得ない事です。

現在も中華人民共和国北朝鮮ではそうらしいのですが…支配者が意図的に情報を「隠している」状況下で、民衆が正しい情報をひそかに得るためにインターネットを利用したり、自分の意見を表現するという事に使われるのならば、これはまさに情報の(収拾と発信の)民主化と呼んで良いように思います。

まあ、これがメリットであるわけです。

それに対してデメリットは何か…

ブログやSNSなどを色々見ていますと、中にはたいへん酷いものもあるわけです。
他人の事故や病気による不幸を揶揄したり、人間の生の尊厳をあからさまに賤しめたり…
このような表現も「自由に」できてしまうわけです。

刑法上の犯罪行為を含むものや、それを助長したり、また明らかな名誉毀損・誹謗中傷になるものについては、警察等による取締りや接続業者による指導によって解決する方法があるのですが、個人の「自由な表現」については、それがいかに「反社会的」「反道徳的」であろうが公権力によって取り締まる事はできません。

これは二つの理由からです。

一つは憲法が保障する「表現の自由」です。
もう一つは、その表現内容が「反社会的・反道徳的か否か」という事は、あくまでも相対的・主観的基準で判断するしかなく、絶対的な基準が無いからです。

これについては私は原則的にそのように思います。個人の表現については自由であり公的権力によって制限されたり規制されるべきではありません。

と同時にここに難しい問題がひそんでいると私は考えています。

憲法表現の自由は、あくまで「個人の表現を国家が制限してはならない」ということですから、個人が個人に対してその意見・表現に対して異論を唱える事は出来ます。

よく誤解があります。(社会通念上「問題がある」とされる表現をとる者に特に)「憲法で保障されているのだから何を表現しても自由だ」という誤解です。

確かに表現する事そのものは「自由」なのですが、それに対して「反論」や、「社会的評価」、はたまた「経済的社会的不利益」を受ける事はありえるのです。それを他が与える事も全くの「自由」であるわけです。

例えば、私がこのような論考を公表することによって「向学舎はアホな事をいうているので、あんな塾には行かん方が良い」と誰かが判断し行動に移すかもしれません。これはまた全くの「経済的不利益」を被ってしまうわけですww

もしくは、この論考に対して「苦情メール」を送ってくる人もいるかもしれません。

表現をした私には、その「経済的不利益を受け止め、苦情メールに対して返答をする」という責任が発生するわけです。

その責任を取る覚悟無しに表現する事はできません。

極端な話し、この論考が気に入らないと考えた「狂人」が私を刃物で襲うかも知れませんねw
それとも戦わなければなりません…

これも、この論考が「匿名ではない」と言うところから生まれる責任です。

問題は、多くのブログやネット上の発言が匿名でなされている…という事にあります。

先の「弾圧に対向する勢力」の例であればその匿名性はポジティブなものと考えても良いでしょう。

ところがネットの匿名性の陰に隠れて、「非道徳的」「反社会的」内容の表現がなされている…まあ間違いなくそのような者は確信犯的にそうであるのでしょうけれども…としたらどうでしょう。

これがネガティブな側面です。

少なくとも現在の日本は自由社会でありますから、社会に対して何かの意見をきちんと言うのならば、匿名である必要はありません。内部告発であろうがなんであろうが、客観的な正当性があるのならば堂々と実名で表現すれば良いのです。

そうでない「意見」であるならば、あえて言わなければならない必要性や合理性はありません。
ただの「面白半分」や「ストレス発散」で感情を吐露するのならば、「紙袋の中に吼える」で十分です…本来ならば。

ネット上でこのような問題ある表現をする者に問いかけますと、必ずこう答えが返ってきます
「嫌なら見なければいいじゃあないか」

そのとおりですねwww
ある面では「納得」します。

「納得」しながらも、そのような表現を見つけたら、「世間の目」として否定的な見解を書き込ませていただきます。まあ、有る意味の「嫌がらせ」を私はいたします。

お前の表現している事に不快感を抱いている者がいるぞ

こう私が表現する事で、その間違った表現者が何かに気づいてくれればそれでOKです。
おせっかいではあるとは思うのですが…

強く育てる…大人の責任

(読売オンライン5月8日)
就職活動の失敗を苦に自殺する10〜20歳代の若者が、急増している。

 2007年から自殺原因を分析する警察庁によると、昨年は大学生など150人が就活の悩みで自殺しており、07年の2・5倍に増えた。

 警察庁は、06年の自殺対策基本法施行を受け、翌07年から自殺者の原因を遺書や生前のメモなどから詳しく分析。10〜20歳代の自殺者で就活が原因と見なされたケースは、07年は60人だったが、08年には91人に急増。毎年、男性が8〜9割を占め、昨年は、特に学生が52人と07年の3・2倍に増えた。

 背景には雇用情勢の悪化がある。厚生労働省によると、大学生の就職率は08年4月には96・9%。同9月のリーマンショックを経て、翌09年4月には95・7%へ低下。東日本大震災の影響を受けた昨年4月、過去最低の91・0%へ落ち込んだ。

これはあまりにも驚きの?悲しい?虚しい?傾向です。
ある友人がこの件についてこう言っていました。

「忠告だったりダメだしを非難された。て感じる人が多くなっている気がしますそういう人は間違いなく打たれ弱いですよね?」

就職試験に落ちる、採用されないという事は、その会社で働くには何らかの能力が足りないという「忠告」や「ダメだし」なわけですから、それを改善すれば良いことなのです。

それが「できない」と思ってしまうのか、それとも「今の自分を受け入れてもらう」ということが、なにか当たり前のように思っているから、全面否定されたと思うのかもしれません。

まあ、甘えているというか、有る意味「傲慢な」姿勢であると言わざるを得ません。
ご遺族にはお気の毒ですが、死んでしまうのも仕方が無いようにも思えます。

私はこのGWに鳥取県へ高校生のヨット大会に、「ひ弱なエリート高校の生徒」を参加させに行きました。

日本海での大会らしく、大きな波がたち強い風が吹くハードなコンデションで有名な大会です。

3日間の大会のうち2日間は、いつもの琵琶湖では味わえないような天候でした。2日目は強風のためブームで頭を打ち脳震盪で意識を失った少女が救急車で搬送されました。(CTの結果でも問題はありませんでした。)3日目は参加50艇農地10数艇が帆走できず、そのほとんどが洋上で艇体放棄…乗員だけ救助されました。

中には低体温症でやはり救急車で搬送される少女もいました。(病院ですぐに回復しました)

連れて行った高校生も、洋上で救助され安易な服装で出艇したため、あわや低体温症となるところでした。(勿論、ハーバーの温水シャワーを浴びすぐに回復しましたが)

このような厳しいコンデションの中なぜレースをしたのか?
主催者は何を考えているのか?もっと安全に配慮すべきであろう…

おそらく一般の「常識」ではそのように思われるかもしれません。

実際に…もし琵琶湖での試合であれば今回のような天候ではレースはおこなわれないでしょう。「安全に配慮」して…です。

鳥取県セーリング連盟ではこのようなレースを28年もおこない続けています。(28年前の鳥取国体開催時からだそうです)

おそらく高校生達に「失敗させる」ためにこのレースを続けているのではないかと私は思います。彼らに「海の怖さ」や「あわや」と思わせるところまで経験させるために大会を開催しているのでしょう。

実はこの大会では琵琶湖でのレースや他の大会では比較できない位の救助体制がしかれていました。高校生達に「失敗させる」為の備えといっても良いでしょう。絶対に事故は起こさないという主催者の強い意志が感じられる体制でありました。

(ちなみに琵琶湖のハーバーでは温水シャワー設備すらありません。)

さて

日常の子育てや教育指導の現場で、鳥取県セーリング連盟さんのような「志と備え」を大人はもっているのでしょうか?

子供が安全に…
子供が傷つか無いように…
褒めて自信をつけさせる…
心のケア…

ここ20年くらいの教育の現場はこのような「子供に配慮した」指導方針や方法が溢れるようになりました。

これは本当の「配慮」なのでしょうか?

大人の側が子供を育てる・強くするための責任も能力も無いが為の「ごまかし」としか私には思えません。

実は弱くなっているのは子供達ではなく大人なのではないでしょうか…

鳥取の海で私はそう思いました・

尖閣諸島は日本の領土…

尖閣諸島は日本の領土であるか…

これについて私は日本政府の主張する事を支持しています。
おそらくなんら理論的な問題点はないと思います。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/index.html外部リンク
(外務省のホームページ)

とはいえ実際には台湾や中国が日本の領有に意義を唱えていますので、実際には「領有権の問題」は存在するのですが、それについて日本政府の公式見解は「尖閣諸島に領土問題は存在しない」という「建前論」に終始しています。

そのくせ、尖閣諸島への上陸を禁止していたり、付近海底にあるとされている地下資源の調査もおこなっていない…という「宙ぶらりん」の状況が1971年にアメリカから返還されて以来、ずっと続いているわけです。

2010年9月に起こった。尖閣諸島中国漁船衝突事件や、先ごろの東京都知事尖閣諸島を東京都が購入する…という発言によって、あらためて尖閣諸島の領有についての議論が起こっているのですが…いったいどうなる事やら…であります。

よく、「国際司法裁判所」に提訴し領有権をはっきりさせるべし…という意見もあるのですが、今のところ「建前論」に終始する日本政府はそのような姿勢を見せる事はありません。

私は日本の領有が合理的根拠を持っていると考えるのならば、同等と国際司法裁判所に提訴し、決着をつければ良いと考えています。(勿論、相手国がその裁判に応じるかどうかが問題ではあるのですが…)

.日本の領有権を明らかにし、堂々と尖閣諸島近辺にある地下資源の調査や採掘を進めれば良い…と考えるわけです。

尖閣諸島近辺の地下資源について
「1968年の海底調査の結果、東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘され、1971年に中国、台湾が領有権を主張しはじめた。1969年および1970年に国連が行った海洋調査では、推定1,095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告された。」
WIKIPEDIAよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C外部リンク)

とまあ、単純に行きませんのが、そもそもこの「地下資源」の可能性が原因なのですが…

現在のところ、もし日本の領有が確定し地下資源を採掘するにしても、コストがかかり過ぎて採算に乗らない…中国や台湾に向けてパイプラインを敷設しな蹴ればならない…などの「技術的」問題が多く指摘されています。

このことから、中国や台湾との共同開発の必要がある…とも言われています。

もしそのような問題が解決し、中国なり台湾と共同開発が可能ならば…さて日本の経済や日本と他国との経済関係はどうなるのでしょうか?とてもドラスティックな変化が見られることは容易に予想できます。

何しろ、もしかすると日本が「エネルギーの自給」や「産油国になる」という可能性もあるのですから…

もしそうなるとどうなるか…

JX日鉱日石エネルギー 31.1%
出光興産          13.6%
コスモ石油アラブ首長国連邦IPICが筆頭株主)           13.5%
昭和シェル石油外資 オランダ ロイヤルダッチシェル)      11.3%
エクソンモービル石油(外資 アメリカ エクソンモービル)     10.6%
キグナス石油        2.0%
太陽石油          2.9%
三井石油          2.0%
(出典http://www.noe.jx-group.co.jp/binran/data/pdf/42.pdf外部リンク)

2010年の日本の石油元売会社の販売シェアなのですが、2010年の原油輸入総額が9兆200億円ですから、(出典http://www.enecho.meti.go.jp/topics/hakusho/2011energyhtml/2-1-3.html外部リンク)まあ大きな商いがパーになる可能性もあるわけです。現在の産油国は勿論、それに関係する世界の石油関連会社も…日本の現在の元売会社でも、特に尖閣近辺の原油採掘に参入できなければ大変な損失を出す事になります。

何しろエネルギー源の自給率が極端に低い日本ですから、(参考http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4060.html外部リンク)そういった意味では経済自立度が低い国といえます。勿論、国際関係を平和裏にすすめ協調体制をとれば良いのですが、エネルギー源確保のために国際的に不自由な立場をとらざるを得ない面は明らかにあるわけです。

エネルギー自給率を高めた上で、国際協調していく…このような姿が本来あるべき姿であると思うのですが…

現在の中国・台湾の政治体制や、日本のあまりにもアメリカに依存した政治体制では、尖閣諸島近辺の資源開発も「絵に描いた餅」になるのかもしれません。あせらず、今の「宙ぶらりんの状況」で時期を待つ事も一つの方法であるようにも思えます。

資源は過去の地球からの贈り物なのか、神様からの贈り物なのかもしれませんが、ヘタに開けてしまえば「パンドラの箱」となり収拾がつかなくなるものであるのかもしれませんね。